こんにちは
現代アーティストの 児玉加奈子です
今朝ふと思ったこと
「私たちは、この文化の中で生きてきたからこそ、この今の思考がある」
まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけど
新作のbluebottle
この考えも感じ方も、(感じ方は本来的なものもあるから違うものもある)ほとんどが、文化的な経験からのもので
例えば、極端に言えば未開の地で育ってきたならば、とても同じ思考にはならなかった
そう考えると、この悩みも、喜びも、文化的だなあ…と思った
思考している事ですら、ムダなような気すらしてくる
でも、この文化的な思考からこの事に気づけたのなら、それもまた運命
考える運命で気付く運命
未開の地で産まれ育った方なら…と思いを馳せる時、またピダハンのことを考える
ピダハンのようにストレートで自分の目でみたり体験した事しか信じない、言葉の数が少ない中で生きたなら、どんなだっただろうか…
私たちは、ピダハンを知りたいと思うけれど、ピダハンからは、私たちの世界を知りたいという欲求はあるんだろうか?
もしかしたら、ピダハンは、同じ時を生きているけれど、いわゆる次元が違うのかもしれない
ギリ私たちが認識できているとか。
そもそも、言葉が少なく未来をさす言葉がないピダハン
ソシュールが言うように、言語には対立しかないのなら、未来も過去もないピダハンは、まさに「今」を生きている
それが文化的思考には、ない氣がする
私も、今に生きようと思いながら、未来と過去に囚われている