明治維新から終戦まで

慶応4年(明治元年、1868年 )3月、甲府城へ入った新政府の板垣退助率いる甲州街道軍と、近藤勇 率いる旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組 )が勝沼甲州市 の一部)大善寺 で激突。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。

同年10月19日旧暦9月4日 )、甲斐国内に府中県県庁所在地 は山梨郡甲府)、市川県石和県 が設置され、12月11日旧暦10月28日 )にこれら3県を統合して甲斐府 が設置された。明治2年(1869年8月27日旧暦7月20日 )、「 」の呼称が京都府東京府大阪府 に限定されたことから、甲斐府は甲府県 と改称した。

明治3年(1870年 )5月に田安領を併合し、明治4年(1871年8月29日旧暦7月14日 )の廃藩置県 後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる全国的な府県再編により、旧韮山代官所 を引き継いだ韮山県 の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日旧暦11月20日 )に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令 には土肥実匡 が任ぜられた。明治6年(1873年 )に着任した藤村紫朗殖産興業 政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。

明治42年(1909年 )には甲府連隊 (歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年 )7月には、甲府空襲 によって甲府は灰燼と帰した。

戦後から現在まで

終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。

連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保 が当選し、初代公選知事となる。吉田は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久 が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地 西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発 に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル 建設による幹線道路の整備は高度経済成長 期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場 問題が発生する。

1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男 は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショック の影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館 を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信 が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明 を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気 の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体 の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。

昭和40年までに県内の中央本線が複線・電化され、昭和57年(1982年 )には中央自動車道 が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、東京都区部からの日帰り観光地としても発展した。

バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーアピタ といったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武ダイエー湯村SC が撤退し停滞する甲府中心街を尻目に発展を遂げている。

望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建 知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館 の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫地方病 )の終息宣言を行う。

天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦 が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅 北口の整備や中部横断自動車道増穂IC 以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明 に敗れ、山本県政は1期で終焉した。

平成15年(2003年 )より平成の大合併 が行われ、64あった市町村が28(2007年4月現在)まで集約された。


行政

経済

農業

山梨県は内陸性気候 のため寒暖の差が大きく、農業 に適した地域は甲府盆地 を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水事業と新田開発 が行われ農業生産力は向上したが、水田 は発達せず地質に合った養蚕果樹 などの商品作物 栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業 において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維 の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活面の変化をもたらしている。

戦後の高度経済成長 期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄サクランボ などの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワイン の醸造も行われている。また、首都圏中京圏 から近い地理的条件を活かして観光 農園として観光客を集めているところも多い。

1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家 から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化農業後継者不足過疎 などが顕在化し、近年の課題となっている。

また、ミネラルウォーター の生産量は52万9388キロリットル (2004年 )であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層 の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水 が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送 コスト が小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス 山麓と富士山 および三ツ峠 山麓である。

工業

工業 は隣接する長野県諏訪地域 とともに、精密機械 産業が発達している。また、水晶 の産地であったことから、研磨宝飾を中心とした宝石 加工産業が発達している。

本社を置く主要企業

製造業
情報通信業
金融業
卸・小売業

拠点事業所を置く主要企業

地理

行政上の区分

なお、富士山頂 から麓にかけて接している山梨県南都留郡 山中湖村静岡県 駿東郡 小山町 との境界(県境)には未定区間がある。

地形

気候と植物相

内陸 側に位置するので、季節変化 に明瞭な内陸性気候 を呈しているが、山地によって隔てられる地域差も大きい。盆地部には夏の暑さと冬の寒さがともに顕著で、冬の季節風(八ヶ岳おろし)が強いが降雪はわずか。年間降水量が少なく日照時間が長く、台風 の通過経路でもありしばしば集中豪雨 に見まわれる。山麓地域では盆地部より気温が冷涼で、降水量も多い。このため、盆地周縁では冷涼な気候に向いた葡萄 の栽培が盛んである。

植物相 は盆地部で落葉広葉樹林 、山岳部では亜高山・高山帯の植生。また、富士川下流域の河内地方は温暖多雨であり、潜在自然植生 で常緑広葉樹林。

自然公園

歴史

律令時代

旧石器時代 の遺跡は最古の一杯窪遺跡都留市 )をはじめ立石遺跡などが見られるが、定住形跡は礫郡が見られる天神堂遺跡などわずかであり、黒曜石 産地である長野県 和田峠 や海岸定住民の交易路であったとも考えられている。

甲府盆地では後の釜無川、笛吹川が流れ両河川の氾濫原 が広がっており、縄文時代 の遺跡は洪水のダメージを避ける盆地周縁の丘陵や山麓、甲斐国東部では桂川流域などに濃密に分布する。最古のものは縄文草創期の神取Ⅰ遺跡(旧北巨摩郡明野村 )をはじめ、縄文早期から後期の住居跡が集中する釈迦堂遺跡 (旧一宮町~勝沼町)、縄文後晩期には気候の寒冷化もあり遺跡数は減少するものの、石組や配石遺稿など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡 (国指定史跡、旧大泉村)などが代表的。また、桂川流域では関東方面から開拓が進んだとする説もあり、大椚遺跡郡(上野原町)では関東色の土器が出土し、甲斐と関東の接点が見られる。

4世紀後半には畿内で確立したヤマト王権 と政治的接触を持っていたと考えられており、考古学的には甲府盆地 南部の曽根丘陵における古墳群、特に畿内色の強い前方後円墳である甲斐銚子塚古墳 の存在や、記紀においてはヤマトタケルの東征において酒折宮 に立ち寄ったとする伝説が伝わり、ヤマト王権の新興勢力、あるいは弥生時代 以来の土着勢力が王権に服していたと考えられている。「甲斐」の枕詞 である「なまよみ(半黄泉)」も、ヤマト王権の勢力が及ばない地域(黄泉)との境界に位置していたから付いたのではないかという説もある。ただしこれは学問的には通説とはなっていない。

律令制五畿七道 では、甲斐国は内陸国ではあるが、東海道 に属していた。しかし、富士山の麓の内陸側に位置するため、東海道の色は薄かった。


鎌倉時代から天正まで

武田氏 は、平安時代 後期の源頼朝 の挙兵に従い、甲斐国 の守護となった。中世には必ずしも甲斐守護を歴任していないが、鎌倉幕府 滅亡後に北条時行 ら北条氏の残党が起こした中先代の乱 までは北条方に属し、以後は足利尊氏 に従った。室町時代 には関東地方の騒乱の影響を受けた。

戦国時代には武田氏が国中、小山田氏 が郡内、穴山氏 が河内をそれぞれ支配するが、武田信虎 が国内を統一して領国を拡大した。その拡大志向を継いだ武田晴信 (信玄)は、この時期最盛期を迎えた甲州金山 の経済力に支えられ、四囲に勢力を伸ばし、尾張国織田信長 との決戦を前に病死した大名として知られるが、領国経営では釜無川 を改修し、信玄堤 と呼ばれる土木工事を施し、甲斐国の経済力を高めた民政家でもあったと評された。

天正10年(1582年 )3月、織田信長の武田攻め で武田氏は滅亡し、信濃から駿河に及んだ遺領は織田家家臣に分配され、甲斐は河尻秀隆 の領土となった。同年6月に信長が横死し、空白地帯となった武田遺領を巡って天正壬午の乱 が起こり、甲斐国は徳川家康 の領土となった。家康は家臣の平岩親吉 に命じて甲府城 築城に着手。その後家康は豊臣秀吉 に帰服し、天正18年(1590年)には駿府 から江戸 に移封され、甲斐国には浅野長政 ら豊臣系大名が入った。豊臣政権 下では検地 などが行われた。

江戸時代

秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い で勝利した家康が、慶長8年(1603年)に江戸幕府 を樹立すると、浅野氏 は和歌山へ移封され、家康の九男の徳川義直 の領地となった。甲斐国は関東 に近い位置から、関東防衛の要所として重視され、国中には将軍直系、郡内には譜代大名が配置され、代官 が置かれて江戸幕府 が直覧した。元和2年(1631年)には、将軍秀忠の子徳川忠長 が入り、支藩の谷村藩 も生まれた。

徳川綱重 、綱豊(徳川家宣 )など徳川家の領地を経て、宝永元年(1704年)、綱豊が将軍後継になると、川越藩柳沢吉保 が受封。享保9年(1724年)に子の吉里が転封されると天領 (幕府の直轄領)化され、甲府勤番と代官による支配となる。延享3年(1746年)には御三卿の賄領がおかれ、うち田安領のみは幕末まで存続した。

江戸時代 には甲州街道 (甲州道中)が整備され、甲府も代官所の城下町 として盛えた。又、江戸時代初期には角倉了以 による富士川 の工事が行われ、富士川水運が発展。江戸中期には郡内(都留郡 )の農民が米価の値下げを求めて米屋の打ちこわし を行い、騒動が広まって甲斐一国騒動 (甲州郡内騒動)と呼ばれる百姓一揆 に発展した。

山梨県(やまなしけん、英語表記:Yamanashi Prefecture)は、本州内陸 側に位置する、日本 の一つ。令制国甲斐国 に相当する。


山梨県
やまなしけん
地方 中部地方甲信越地方
関東地方
団体コード 19000-4
ISO 3166-2 JP-19
面積 4,465.37 km²
※境界未定部分あり
総人口 877,752
推計人口 、2007年11月1日)
人口密度 197 人/km²
隣接都道府県 東京都神奈川県埼玉県静岡県長野県
県の木 カエデ
県の花 フジザクラ
県の鳥 ウグイス
他のシンボル 県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
山梨県民の日 :11月20日
知事 横内正明
山梨県庁
所在地 〒400-8501 山梨県
甲府市丸の内1丁目6番1号
電話番号 055-237-1111
外部リンク 山梨県ウェブサイト
位置 北緯35度39分50秒
東経138度34分6秒
山梨県の位置

山梨県行政区画図

:市 / :町・村
山梨県旗
山梨県旗

山梨県庁舎本館
山梨県庁舎本館

山梨県庁別館
山梨県庁別館

概要

南に富士山 、西に赤石山脈南アルプス )、北に八ヶ岳 、東に奥秩父山地 など、海抜2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。都道府県面積は全国32位だが、山梨県はその8割を山が占めるため「海なし・山あり」とも呼ばれる。「山があるのに山無し県(山梨県)、海が無いのに貝の国(甲斐の国)」という囃し文句も存在する。

箱根峠相模湖 より西の内陸 側に位置しているため、明治 以来用いられている、日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方東北地方関東地方中部地方近畿地方中国地方四国 地方・九州 地方)では、中部地方中央高地 。俗に言う甲信地方 )として区分されている。しかし、首都圏整備法 施行令では首都圏 と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方 と一緒に扱われることもある(同県の運輸関連の管轄は関東運輸局 である)。これは三重県 が地方区分では近畿地方に属するが、国機関の管轄などでは中部地方に属するのと同様である(三重・山梨の2県はこの面で比較される場合もある)。

往来が比較的容易で、交通路も整備されている東京都 (除島嶼)、神奈川県 津久井地区、長野県 中・ 南信地方静岡県 大井川 以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県 秩父地方 との境には奥秩父山塊 に隔てられているが、1998年国道140号 雁坂トンネル 開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となり、今後は交流の活性化が期待されている。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。

名が県名になった県の一つであり、律令制下において中核地域であった山梨郡 に由来する。山梨郡の名前の由来は「旧春日居町 にある山梨岡神社 の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と呼ばれるようになった」という付会伝説が存在しているため、果物のヤマナシ に由来していると思われがちである。しかし残簡風土記 には「山無瀬」、737年天平 9年)の駿河国 正税帳には「夜萬奈之」と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地 の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。そして713年和銅 6年)に「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」とする和銅官命が出されたことにより、「梨園 」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて、「山梨」と呼ぶようになったといわれている(出典:山梨県道路公社 『雁坂トンネルと秩父往還』1998年 )。

県域は、西半部の甲府盆地 を中心とする国中 (くになか)と、東半部の桂川 (相模川)と多摩川 の上流域および富士山 北麓からなる郡内 とに大きく分けられ、両者は方言 (東半部、特に大月や上野原はどちらかと言えば西関東方言 に近い)や自然環境面でも文化的にも性格を異にする点が少なくない。