この前のブログでも書いた、人の持つ「隷属性」と「反逆性(独立性)」について考えてみたいと思います。全て妄想で書いており、根拠など全くありません。
他の生物と比べ、人には二つの相反する自らの性質を制御できる力があるんだと思う。
一つは「慣れ」だと思う。 後に「隷属性」と言い換える。
これはどんな生物でも、環境に適応して生きていくためには必要な能力。
生物はみんな生活サイクルというものを日常的に持っていて、それに従い行動する。「習慣」ともいえるかもしれない。
人は理性があるので、本能による習慣的行為に完全に縛られるというものではないが、習慣を上手く利用する生物のように思う。
たとえば、自分には何か達成したい目的があり、その達成のためには長時間の努力と忍耐がいるものとする。
たとえばそれが受験勉強だとしたら、毎日のコツコツとした勉強量が必要となる。
しかし、それを長期間にわたって意志を保つ強さなど、もともと多くの人間が持っているものではないと思う。
よほど好きなことではない限り、必ずイヤケがさしてきて、サボりたくなる。
ではどうするか?
賢い人間はそんな自分の性質が分かっており、元々自分(人間)が備えている「習慣」の力を使おうとする。
たとえば、受験勉強だったら「勉強」という項目を日常生活の習慣のカテゴリーとして、ごく当たり前な行為として、日常に溶け込ませるよう組み入れる工夫をする。
溶け込ませるというのは、つまり「習慣化」させるということ。要するに「慣れる」ことである。「慣れる」ことによって、努力を始めだした頃の苦痛より、一週間・一か月と経つうちに苦痛が減ってくる。
もっというなら自らを「隷属化」させるということだと思う。「適応力」と「奴隷化」は。実は非常に似ているのだと思う。
言葉は悪いけどw
人間は人間の性質として「奴隷的」な面をみな持っていると思う。また、それを求めてさえいる時があると思う。
人はみな個人という環境に置かれると、目標に邁進するなど、意志を継続させる力が乏しくなるケースがよくある。
というのは、人は他者を通じて自己の鏡とし、考え行動していく部分があるからだ。
人は自らのその性質を本能的に理解しており、たとえば、部屋で一人で勉強する環境から、自習室や図書館などの環境に身を投じ勉強しようとする。
周りの人が勉強している姿を己の鏡とし、「自分もやらなければ!」という感覚を促させる働きがある。
これは集団力動といって、みんな無意識にその性質を利用している。
これも人が自分の隷属性を良い方へ引き出すという、人間が持つ知恵なのではないだろうか。
そもそも人に隷属性などあるかどうか。
たとえば、もしも自分が古代の時代に生まれていたとして、自分の身分が奴隷であったとしたらどうだろうか?
ピラミッド建造のために毎日を無理矢理、倒れるまで巨石を運び続けさせられたり。
決して報われない、強制される毎日の過酷な労働の中で、正気を保って生活を送っていくことが可能だろうか?
否!
おそらく多くの人は、自らの内にある自由な魂を圧殺してでも、日々をなんとか生きていくことに費やすだろう。魂を「隷属化」させなければ、とても生きてはいけないだろう。
だから、古代の時代に奴隷制度が成り立っていけたんだと思う。
でなければ、奴隷はみな自殺するしかないし、奴隷制度は簡単に崩壊していたに違いないだろうから。
人は自由を売り渡してでも、それでも生に執着してしまうものなのだ。
人の多くは元々「隷属性」を持っているのだと僕は思う。
与えられた「自由」を純粋な意志の力だけで使いこなせる人間なんて、本当にごく少数だと思う。
むしろ人は、自身が持つ「自由」を一刻も早く何者かに売り渡してでも、「安心」を手に入れようとするフシがある。
人間は約束された「安心」と「パン」を手に入れるためには、むしろ自分が持つ「自由」を捧げ、「自由」と引き換えに「隷属化」を選び、約束されたパンを得るという性質を持っているからだ。
この誰もがもともと備える隷属的性質を利用することにより、より無意識的に毎日の苦痛に耐え、目的を達成してゆくことができるのだと思う。
それが受験勉強だろうが、ダイエットだろうが、労働だろうが、貯金だろうがなんだろうが。
自分の崇高な目的の奴隷と化すわけだ。
つまり目的を持った「意志」の強さを継続的に「行う」ために、自らの内にある「隷属性」を利用するという流れである。
この性質を上手く利用できない者が脱落してゆくのかもしれない。
しかし、意志の強さに裏打ちされた目的に「隷属性」を利用するのは高等なものであり、たいていの場合は娯楽や暇つぶし、生活の乱れなどの場でよく見られるものなのかもしれない。また病的でさえあったりするのかもしれず、人は自らの「隷属性」をしばしば悪い方向へ使用することが多い。
たとえば、ギャンブルで身を持ち崩したり、アルコール依存、タバコ依存、過食、昼夜逆転生活、TVゲームを長時間やめられなかったり、新興宗教に全てを依存したり、毎朝のテレビの星座占いを見なければ気持ちが落ち着かなかったり、毎週のドラマを見る習慣の行為にさえ無意識的な隷属性が関係しているのかもしれない。
本当に自分の自由な目的意識でその行為をしているのか、それとも日常の隷属的パターン化として無意識的に行われているものなのか。
ある意味ジンクスや儀式なども、隷属的なものが含まれているのかもしれない。
時の権力者でさえ、カネや利権への奴隷となりはて、晩年に孤独であることに気付いたりする。
そう言いだしたら、誰もが常に何かの奴隷であると言えるのかもしれない。
「隷属」の性質は悪い方向に流され墜ちていきがちなものだけど、それを良い面に利用しようというのが人間のしたたかさだと思う。上手に生きていくためのコツだと思う。
でも、そうはいってもなかなか上手くはいかないものだけど…。
もう一つの性質は、理に依る「反逆(独立性)」だと思う。
人は、自己の利益とは関係なく行動する面がある。たとえば「自己犠牲」などはそれに当てはまる行為だと思う。理屈では説明できない意志の強さが発揮される。
あるいは70%の負けが確定している勝負であっても、あえて本能からわきでてくる負け・失敗の恐怖を理性でねじ伏せることによって、動揺を抑えつけ、70%の負け・失敗を無駄に意識せず残りの30%に賭けて集中して、自分の力を有効に出しきるという方法など。ある意味本能に逆らうような行為だ。
勝つため、自分の実力を出しきるため、理に依って無理に行動するわけである。
オリンピック選手・スポーツ選手などが、このような思考過程を得意とするものではないだろうか。
「人はパンのみに生きるにあらず」とはよく言ったもので、人は何のために生きるかという概念なしでは、生きてゆくことをいさぎよしとせず、たとえ周囲の全てがパンであったとしても、その地上にとどまるよりは、むしろ我が身を滅ぼそうとするものだから。
これは人がもつ「隷属性」とは正反対な「反逆(独立)」的なものではないだろうか。
この性質は、抑圧され隷属化を強制された世界でも、約束された安全や、なけ無しのパンを放り出してまでも、革命に身を投じる高潔な精神に関係するように思う。
要するに、身を挺しても何かを変えるために意志を発揮する原動力になる性質だと思う。
一つは理に依って本能を利用し。
一つは理に依って本能に逆らう。
この二つの相反する性質を備え矛盾に翻弄されつつも、人はそれらを上手くコントロールする力を持っているのだと思う。