仕事がシンドイ・・・

気を使うし、疲れる・・・



と帰ってきてぼーっとしながらユーチューブを見てたらこの曲があった。

星降る夜になったら/フジファブリック



曲を聴いてたらなんか、中学生の頃の自分を思い出した。

あの頃は、こんな曲みたいに毎日がワクワクして、漠然とした何が起こるか分からない未来にドキドキしていた。


帰路の向こうにある、沈む夕陽が綺麗で、ただ綺麗でその雰囲気に呑み込まれそうになる。



何かが起こりそうで、何か特別で素敵なことが起こりそうで、でも何も起こらなくて、ただそんな雰囲気に満足してた。


そんな思いってあの頃だからできていたのかな。


今はそんな雰囲気かけらも感じない。


世界のことをあまり詳しく知らなかったほうがよかったのかもしれない。


金や女や人間関係や仕事や残業や義務や権利や酒や年金や保険や健康や税金やローンや性欲やなんやらかんやら


そんなことちーーーーっとも考えなくても、今よりも世界が1000倍楽しかった。


なのに、今は少なくとも金がなかったら、どこにも向かうことができずに何も楽しくない。


一人ぼっちでも、本と音楽と世界があればそれで良かったのに


どうしてこんなんになっちゃったんだろ


ああいう思いを持ったまま大人になるのって不可能なのかな


こんなこと考えてるの俺だけなのかな


何かをたくさん得てきたんだろうけど、その分無くしたものは計り知れないように思うんだよな


なんか全く違う世界をさまよってるようだ


元の世界に戻れるかな


なに毎日に必死になってんだろ、俺


本当にこんな毎日続けることで、満足できる未来があるんだろうか






 専門家の間ではエンブレムは模倣とは考えていないが、一般国民の理解が得られないため、使用禁止にすることで佐野氏、審査委員、組織委三者で意見が一致したとの説明がオリンピック組織委員会からなされた。



そもそも、オリンピックは全国民的行事でしょ?一般国民から支持されるような、一般国民が理解できやすい象徴となるエンブレムを考えるべきでしょ?
つまり、デザイナー専門家とのたまう審査委員の方々は、一般国民に分かりにくいものを選んだ時点で大きな見当違いを起こしていますよね。
そのあたりの基本的な考え方のベクトルが、大衆と乖離していることが問題でしょ。


そんな基本的な国民のニーズすら取り違える、その感性こそが「鈍感!」と言わざるを得ない。
デザイナーのくせに、人の感性に鈍感というのは、デザイナーとして致命的ではないか?


難しいことをやりたいなら、国民行事でやるのではなく、自分の自己満足の世界でどうぞやってください。

また、その責任を一般国民になすりつける姿は、醜くて仕方がない。あなた方が求めた芸術の世界からはかけ離れたような醜い結果を招いたのではないか?


前回のブログでも書いたが、芸術家は作品を作る上で「わかりやすさ」を大衆に示す義務がある。
「わかりにくさ」の上にあぐらをかいたような活動はやめようよ。




分かりにくいことが重宝がられることがある。

たとえば、絵や文学、音楽なんかの芸術の類だ。



あやふやな感じが、空気が好まれたりすることがある。

それは認めよう。



なぜなら、世の中にある真理とは、あやふやな場合が多く、グレイゾーンの中にあることがほとんどだからだ。

数学のように明確で、絶対と言えるようなことはむしろ少ない。



しかし、真理を探究する芸術家は、せめて分かりやすい形で世間に発表する努力をする義務があるのだと思う。

なぜならその仕事は、数学や科学と同じように、別の観点からであっても、同じ真理を追い求めている作業に他ならないからだ。



宗教だってそうだ。

真理をかざすのなら、最も分かりやすい形で大衆に示す必要があるのではないか。

それが雲のような真理を、網をただ途方もなく振り回すことで掴もうとする者、掴める者の役目ではないだろうか。

怠ってはいけないのだと思う。



人間関係にしてもそうかもしれない。

その人の分からない部分、ミステリアスな部分があるから、その人に惹かれたりもする。



しかしそれは所詮、偶像でしかないのだ。

みんなが分からないものを、分かったような気になって自己満足しているにすぎない。



そういう不確かな空気のような物にあぐらをかいて、分かったような気になっている芸術家や大衆を僕はあまり好まない。



ときにはすべてを明確にさせ、分からないものは分からない。分かったものは分かった。という風に素直に認め示し、みんなと同じ土俵で示さなければ説得力がない。

せめてもの、分かりやすく示そうという気概さえ失ってしまったのでは、もはや話しにならない。