がんばってなんとかしてるもの | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

がんばって、なにか達成したことのある人は、がんばったからどこか、なにかにたどり着いたと感じているかもしれない。
うん、がんばるから、日頃出さない力まで動員するからがんばった時はどこか、なにか、にたどり着ける。

で、「がんばればなんとかなる」と思う。で、次回もガンバローとか思ってしまう。

でもそれはガンバラなければできないことになる。
ガンバってしまうから、疲労も早く、疲れはたまり、思考はニブくなってくる。

そこいら辺はあまり勘定にいれずに、むやみにがんばる回数ばかりふやして、「なんとかしちゃう」ことばかり増える。随分と疲れがたまるまで「なんとかしちゃえる人だもの」と思い込むがために、ひたすら疲れていく。

力を込めていなくてはゆるんでしまうもの、が心の中にはある。
自然なものだと思い込みたがるんだけれど、自然なものではない。
ガンバル、というのは不自然なものなのだ。ドーピングのような結果でもある。

日頃の出し惜しみを発揮する、といえば聞こえはいいけれど、継続してなにかをするときに、いつもいつもガンバルものの上にあるものは、どうもなんだか疲れるのである。

自分のことでも、他人のものでも。

魅力的なもの、に触れるときには「うわぁ!」というあこがれのような気持ちと、「ほっ」という抜けたような安堵感がないだろうか?
真の「天才」を目の前にしたことがある?で、その人に「努力」とか「ガンバってる」って感じる?感じにくいはずだ。彼等からはむしろ自然体のまま、を感じないか?無駄な力を抜いた印象を受けないか?
「天才」を有する人はそこに至る行程に「苦労」や「努力」の回数は少なく、直感やセンスでそこを見抜いて達する人達なのだ。

そうしたものを積み重ねてある「高み」に達する人というのは「天才」ではなく、どこまで努力しても「秀才」の域の人だ。
「秀才」の人にはたんまりと「ガンバル」がつまっている。
ガンバることに、あまり「嫌ぁ~」とも「またぁ?」と抵抗すらあまり感じてない様子だ。がんばれば、なんとかできる、と思っているからだ。

まぁ、それゆえに、いつもどこかで「がんばれば・・」と思っているフシがある。そして他人にもあんまり考えなしに「がんばれよ」って気さくに「がんばれ」を輸出してくる。

「がんばらせるなよ~」と、ワタシは思う。こっちはもう、すでに伸びきるところまでがんばっているかも知れないじゃん。

そこんトコ勘定にいれもしないで「がんばれよ」ってヘーゼンというのさ?
この無配慮は非難に値しないっていうの?「もっとガンバレ」ってあんまり考えなしにいってしまうのは、暴力に似ている。

「ガンバれないとこにいる人」に秀才肌の人は、もう、言葉を持たない。ボキャブラリーが底をついているのだ。
ガンバれない人、はたしかに存在する。努力ってものがものの見事にすべりまくる人ってのはいるのである。本人はがんばれるものならガンバりたいんだー、って思っているのに、どうあがいたってダメなんスよーってことがあることすら、秀才肌のガンバリ上手さんには分からない。想像力の幅が極端に狭い。

ガンバリたいのに、ガンバレない苦痛。苦痛なんだよ。本人にはツライのだ。

たっぷりつらいのだ。ガンバレなんていうなよ!
ガンバレって言葉なんかで放り投げてくるなよ!!って痛烈に怒りをもって答えるのだ。

がんばれねーからツライんじゃん。
じゃあ、「がんばれない人」はどうしたら「ガンバれる人」に太刀打ちできるっていうのだろうか?

あらかじめ、あんまり考えなしに「がんばる」ことを引き受けられたってだけで、そんな器用さだけでがんばれるヤツはエレエ!っていうのか!?
ジョーダンじゃない。がんばれるっていうのは器用さによく似てる。
敢えて言おう!「そんな勝負にのるな!」だ。

あこがれてなんてやるな!

「がんばれるやつはあっちで勝手にがんばってろ!」とののしってれ。

ガンバらないで、なにかができる方法とは、自分のテリトリーで発想して、自分のテリトリーで勝負を挑む手段を見つけることだろう。
簡単にいうと「得意なことをみつける」のが手っ取り早いのだ。
または「得意なんだろうと錯覚できること」に突進することだ。

私たちの大多数の人間で「困って」いたり「焦って」いたりする人は、おおむね「他人の土俵」で戦うことを善かれ悪しかれ自分に許している人達なのだ。

他人の土俵でノタクタしてるから、のっけから緊張し、疲れ、失敗できないよな、とか自分で
決めちゃうのだ。うまくやろう、って誰も要求していないところからキチンとしはじめる。それは「他人の土俵」に乗りにいっているからだ。

やめちまえ。襟元正してシャッキリせなアカンところが不得意なら自分が錯覚や勘違いでもいいから、ゆる~りとスタートできるスタートラインを見つけることを大事にしたらいい。

自分の得手不得手も納得しないうちに「がんばろう」とするのは本当につらいことなのだ。

うまくいかなくてもあたりまえなのだ。
「ワカンネーうちはがんばるな!」としかれる人もいないよな。
「むやみにガンバるな!」とも思うのだ。
「なんだってキミはがんばっているんだね!バカモノ!」って誰かしかってくれたら「ハッ」とできたかもしれないのに。

そして長く、楽しく自分が挑んでいきたいものがやんわりとでも見つけられるようになれば、それはもう、きっと「がんばって」いることも忘れているようになる。

他人が見ても苦しくない「ガンバリ」がそこにするすると流れているはずだ。
それは自然体である。

意識して「がんばってる」のは、時として「自分を卑下してる」ことすらある。

「自分の魅力」が他人にしか見えないように、「がんばって見せているもの」は作り物の見栄えに手間暇かけている人なんですよ~、ワタシ・・・なんてなアピールにしかならない人がゴマンといる。

 

そういう人を「直感」でインスピレーションできる人の目には「つまらん」ものにしか映らない。
デコレーションが派手な人間はつまらないし、疲れる。
得るものが少ないし、傷つくし、悲しくなるし、無為に感じる。

自分の魅力がわからないからどーだっていうのさ?
わかんなくてもどっかにあるのさ、コンチキショーって顔つきでフンフン鼻唄うたいながらノーノーとしていれば、もうそれでチャーミングってもんなのさ。魅力のない人なんていない。
 

でもそれを知っておく必要は必ずしも、のものでもない。
知らなくても大丈夫。どっかにあるんだもの、ってそこはさておき、とっとと自分の土俵にかけあがるんだ。君のもっとも得意とする土俵へと。

さんぜんと輝くことのできる、君なりの特製の土俵で君のもっとも得意技とするものを華麗に、ちょっとくさいくらいに鮮烈にアピールするのだ。10回でも100回でもしたらいい。
それが、あなたを、一番、ググンと伸ばし、いい気分にさせるものだ。

がんばってなんとかなんてすんな

そんなふうに良く分からないもので自分をいい加減にすんな。

がんばらないでもできることをグイグイやれ。それでいい。それが一番いい。
 

がんばれる人は、そうね、がんばれ。がんばりそのものは売りものにならないかもしれないけれど、君はそれに意義を唱えることすらしなかった怠慢をいつの日か問われるかもしれないがね。そして「直感」へ「常においつけないレース」に挑んでいることも忘れずにね。
それが「がんばり」の背負うペナルティなのだ。

このエッセイは「がんばれない」人を擁護する視線からのものですので、
がんばれる人には不愉快でしょうがスマンです。ほな。