血にまつわる現場の凄み | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

 

物凄い吉報に思うんです。輸血さえ叶えば、生きながらえる局面を経た人なら、その周辺に位置した人なら、この切実さの解消は本当に吉兆そのものです。

製造方法はこうです。保存期限が切れて廃棄せざるを得ない献血からヘモグロビンだけを抽出。それを脂質の膜で包みカプセル状にすることで、血管に流せる人工血液になるのです。最大の特徴が、血液型を問わずに誰にでも投与できるということです。

母がまさに今血液にまつわる闘病の最終局面のカーブに差し掛かっておる身としては、ごく簡潔に言ってのけて見える先生の言葉が輝いて読めてます。

献血の時に聞いた話では、献血時の血液も1ヶ月は持たないって話だったとおもう。そこが廃棄以外に転用の余地があることで、命のバトンが続く人ができる。

 

日本の自治体によっては衰退著しくって、近くに病院がなかったり、遠くまで出向くのがどうにも億劫な状況の人もたくさんいます。


その意味において、輸血が自在に叶う時代でもなくなっても来てるから、有効な手立てが増えてくれるのはすごく嬉しい。

ああ、生きられるっていうスベが増えるのはやっぱり嬉しい。

「ヘモグロビンの生成の過程で赤血球膜を除去していますから、もはや血液型抗原はないということです。本物の血液ですと冷蔵で4週間ですが、この製剤ですと室温だと2年間、冷蔵だと5年とかもつことがわかっていますので、備蓄ができるということです。そういう利点がございます」

3月に母の罹患と病名がわかってから、ヘモグロビンの数値が1/10で、免疫も極端に落ちてる上に、栄養が取れてなかったものだから、病気でそうなったのか、そうであったので病気になったのかも判然としないまま、治療に入って早半年。

 

輸血だけが命綱の時間を母と共に過ごしてる間に、人知れず「献血しててくれてた人たち」が母の命を繋いでくれる血をくれてたことに🐼は「俺は何にも分かってなかった」って愕然としたんです。

 

えらそーな言い草より、黙っての行動ができてる人の方が断然冴えてる。

「どんな患者さんでも、ケガされた人でも血液型関係なくひとまず入れておくと。例えば1時間でもこれを入れることでもてば、その間に病院に搬送してきて、次のことをやればいいんじゃないかなと思います」

有事に、「時間が稼げる」は物凄いインセンティブなんですよね。判断を増やす機会を得るし、手立てを講じる余地が広まる。適切な場所に移動もできるかもしれないし、取り寄せての処置で生き残る確率がグンと上がる。


「その場を生きて過ごしておける」要因は多いに越したことはない。

今はそれがわかる。

鹿児島本土から約370km離れた場所に位置する奄美大島。6万人近い島民が生活するこの島で今、起きている問題が「輸血用の血液が届かない」ことです。

生死の分かれ目に、間違いを起こしにくくさせるってすごく大事。

「今は鹿児島県赤十字血液センターから航空機を使って運んでこないといけない。輸血製剤が手元に届くまでに平均10時間もかかっていたら、とてもじゃないけど助かる命も助からなくなってしまいます」

そんな時、目の前の患者を助けるために島で行われているのが「生血輸血(なまけつゆけつ)」です。島民から採血した血液を輸血に使うというものです。

生血が必要になると島民が病院に集められ、その場で採血を実施。採血された血液は感染症がないかの検査や放射線照射をして安全な血液に変えた後、手術で使われます。

凄まじい。凄まじさの中に、否応のなさも宿ってる。人のために、人が血を分け合う。

生血が必要になったとき、病院からの要請を受けて島民を招集するのは地元消防の仕事です。

「リストは名瀬地区のA型、名瀬地区のO型、笠利のA型…と分けてあります。リストをもとに範囲を決めて、それぞれ(署員)が空いている電話で電話しまくるっていうのが実情です。(生血の発令頻度は)年間2~3件前後です。いろんな観光客が来られ、交通事故や海の事故は増えていますので」

島外の人の命も、島内で共に助ける互助の精神いかばかりか。物凄いことが起きてる。

 (大島病院の患者)「私は3回目の手術のときに、すごく出血が多くて生きるか死ぬかの状態のときに、大木先生が生血輸血をされたりして今があるんですよ」
 (患者の家族)「手術が終わってから、先生方からたくさんの生血を投与したと聞きまして、そのときに改めて、ここの島は『血液が常時提供できるような状況にないな』と」

本土にいて、この心配の仕方は日常的にはない。そしてこの心境は🐼は今はすごくわかる。

「血があってくれること」だけが、本当に岐路の瞬間がある。

「『血液備蓄所があったほうがよかった』とみんな声をあげたけれど、相手にされなかった。変えてくれないんだったら、我々は自分の命は自分で守るしかないから、生血の精度をブラッシュアップして独自にガラパゴス的に進化していくしかないかもしれない。でも本来それは望ましいことではない。腹立たしいんだけれど、そうでもしないと我々の命を守れない

この切実、この切迫。

「実際、だって、そうなんだもの」の前では、理屈や理想の話より、一滴の血なんだよ。本当にそう。

 

「自分も血をもらう時があるかもしれない」

 

この一行の心が、顔も知らない誰かのためにいてもたってもいられなくさせます。

「繋がって、連なって、命がそこにある」事実の前では、小理屈より血、なんだよ、本当に。

 

 

遠巻きに、血の大事さで命のながらえが大きく変わることがわかる記事でした。

うちの母も病院行かなくって、難儀しました。その罹患当時、母の死も覚悟、したんです、🐼。

あの怖さは忘れない。