やりたいことをやる、を価値のうちで至高におく人はいるんです。
その念が濃くて本意なほど、実生活にふつふつと実相を求めだすので、「今のままじゃ飽き足らず」の形で表出してきちゃうんです。
そうした刹那(せつな)、「食えなくても続ける」が一つの節目で、「本当に食えなくても、そこにいる」人は、なにかにはなります。
希望通り、ではないかも知れんです。でも居残った人は、なにかにはなれます。
努力なくても才覚があれば、、他者の目に付き、引き上げてもらえますが、「それほどでもない」という凡庸にまみれて見つけてもらえない手合いの才能才覚では、「そこにあっても邪魔」とどれだけ違うかもうわからなくなってます。
頑張れば、とか好きだから、は「当人の事情」を他者に「聞いてくれ」と言ってるだけで、ニーズでもないし、日銭を稼ぐモーションでもモチベにもならない。「そうでいたい!」と心で叫んでる人がいるだけ、の図式になるのが、外野なら、まだわかる。当人にはそれはわからないし、「わかりたくない」バイアスを自身に呪文みたいに諳(そら)んじる毎日だ。
だから言うのよ。
食えなくともそこにいますか?って。
自分でしちゃった決断の、切れ味が悪くって苦悶するのはそれなりに得るものがあります。
自分で自分を許せないことの苦しみに、価値を見出せるかどうかはその人の人柄にもよるでしょうけれど。
京アニの放課犯人じゃないけれど、自分を見いだしてもらえない気持ちになって、他人を苛み出して、殺害までできてしまう。この人の弱さを直視できる人でないと、希望というのは毒でしかない。体内と心で醸成する猛毒。
専門学校、養成所、ボイトレ、研究所に支払ってることで、「そういうビジネス」を潤わすだけって人も多いと思う。
そこの先生なら食っていける。
業界の周辺は、そーゆー食い扶持のあるところだし、東京はその底辺の裾野の広さが日本一でやたら広い。
食っていけばプロ、と言いはれもする。プロには違いない。
なまじ「食えだせてしまう」が故に、中年や老境になるまでずるずる居合わせれば、帰郷か場違いな転職の憂き目にもあう。プロってののはらむファクターだ。
でも合点づくにはなれる。
でもそこでしたっけ?ともなる。
お金を支払ってる間に、「気が済んでる」になっちゃってませんかね?何かを自分はしてるんだから・・・で心を落とし込んでやいませんかね。
そうじゃないでしょうに。
生涯オーディションで「勝ち抜き続ける」業界に入りたくて、常勝する自分を思い描けるほどの才覚を、自分に見出せもしないのにそこに居るには、「滞在費」がかかります。
その時に、「その自分の念は割り合うか?」などと天秤にかけだすようなら、節目でしょうね。
習い事みたいな手応えでいいなら、支払い続けるのは合点づくでしょう。
自分の「好き」は高くつくんです。
それに見合ってる、と自分でしてられる胆力のうちなら、続けられます。
そうした念が途絶え次第、退場は理(ことわり)ってものです。
やってみて、結果が出たし、、得心してください。
周りが悪い、運が悪い、くらいにしか思わないのなら、向いてなかったんです。
その見え方では、業界では続かないと思うのです。きついようですが、夢とかいうのはそういう鍛錬を経由した先に花開くところです。