ピンポン | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

必ず、また、見るな、って予感がしました。

はじめて見た時に。

 

友人の役者・W山くんにはなんとしても見せたかったので、誘うついでに再度見ることにしました。夏休みとはいえ、満員の中、2度めの「ピンポン」をみました。

 

 

さて、そもそも、「ピンポン」を見ることになったのは、このW山氏のおかげでもある。

彼の「芝居」情報はおおむね外れがなく、昨今「大人計画」だの「ナイロン~」だのに勘付けたのも、彼の「🐼さん。面白いッスよ」というさりげないPUSHがあってのものです。

偶然「フリクリ」をオススメしたときにその中に「松尾スズキ」が声優で入ってたのを発見して教えてくれたのも彼です。

そのうち、「クドカン」の脚本は威力がある、という話に進み、実際映画「GO」で、その世界観ののびのびした感じが「邦画」っぽくなくて、素敵でした。

窪塚&クドカン、という「ピンポン」は自然と期待できそうな感じがしたのです。

さて、ここからは「ピンポン」の感想ですので、読まれる方は心の準備をなさってね。
気にしない人はそのままどうぞ。
ちなみに、私は原作の方を意図的にまだ読んでいません。

ゆえに、映画「ピンポン」の感想です。

(注:まだアニメ化される前の話です)



感想:天才を天才として描き、それが「努力」とか「頑張る」ってものではとうていたどりつけないものがある、とキチンと言ってくれる作品、でした。


まず、そのことが嬉しかった。NHK「プロジェクトX」のように、頑張って、工夫して、やりとげる!という人間努力の輝きを賛辞する物語こそが、人々に感銘を与えますが、この作品は「才能」とか「ヒーロー」って存在をまず先に持ってきてくれました。

なかなかないじゃないですか。天才や才能を、ただそれ、として描く作品って。
天才はスカした芝居をした2枚目俳優だったり、心象に「トラウマ」を抱えてたり、とにかく、「自然体で、ホラ、天才」をそのままにしてくれるもの、って極端に少なかった。

でも実際、世の中でフと出会う天才や才能のある人は、自然体であったりします。
ハナもちならない人や、キチガイみたいなイロモノな人こそ希です。
 

ですが、「天才」や「才能」があるので、人と同じことをやってても、自然とだせる結果に「普通」の人とハッキリ差をいつもいつも見せますので、人々はこっそり心に「ああ、天才がいる」とか「才能の差はどうしようもない・・」とか静かにおさまりをつけています。


と、その風景を「だってそうでしょ」として、作品としてみせてくれてる「ピンポン」がやけにうれしかったのです。なんでみんながそうだ!と勘付いていたことをそのまま描いてくれてなかったのだろう、とも思うのです。

マンガでも映画でも、まぁことさら「お芝居」でハッキリしますが、人間が舞台にふたり立ってても、片方の人ばかりに目がとられるってことがあるでしょう?
 

それは「魅力的」とか「華がある」ってものであって、喋ってる量や叫んでるボリュームに一切比例しない。

それは「才能」である場合が多いです。
 

自分の見せ方がうまい、などというセルフコントロールの次元ではなく、あきらかに『意図的なものとはべつ』のものが、その人だけに発揮される魅力を放つのです。

真似も引用も、そのオリジナルにはかなわず、周りの人もただ「好き」になるほかないヤツです。

そうした「才能」や「天才」を、うん、そうだね。ってした上で物語をすすめる作品ってどうしていままで出なかったんだろう。

誰もが感じてて、その誰もが語らずにいたのに、実在する「才能」や「天才」ってものが確かにある!と静かに肯定しちゃえるものは受け入れられにくいのでしょうか。

劇中、「才能」があるのに煮え切らないスマイル君が、ペコに「ヒーロー」を期待しつづける風景も大好きでした。私達の日常生活は、あまりにも「ヒーロー」を軽視しすぎてる。

 

 

幼少の頃、変身ものや巨大ロボットもの、ヒロイン、ヒーローものをみて心ときめいた思い出が、みんなにあると思うんですが、そうした思い出は大人になってからこそ「役に立つ」もののはずなのに、私達はそれを「使わない」。
自分の中の「英雄」観、は自分が今後進んでいく方向に、具体的に役に立つ。
こうありたい、と願う方向を自分に生んでいる。

「まんがだったしね」「子供だったしね」とかちんまりした話しじゃありません。
自分がうけちまった感銘に対し、わたしたちは「受けっぱなし」なんかじゃすまない仕組みになっています。スマイルがピンチになるたびにつぶやく「ペコ・・」って台詞に似た体験は、私達の誰もに心覚えがあるはず。自分が日常に意識しないでいた、「実はあてにしてたもの」を垣間見る様子を、この映画はスラリと見せる。

そしてペコ。
努力してるシーンも見せてますが、そこにこの話の肝はなく、ペコを見つつ一緒に歩いてる連中の視線から、ペコに抱く「ヒーロー像」が、人々をどんな方向にまで運んでくれてしまうものなのか、を見せるのは、痛快でした。

ペコそのものの人格、とか才能、ってのよりも、そんなそのままの彼を見やりつつペコに期待しつつ、「まけるもんか」だったり「いつかどこかで」という期待だったり、彼、って人がひとり、そこにいることで、彼にいろんな「感情」をみつける周りの人間の「ヒーロー観」。その感情があるってだけで、人は動いてしまう。
その感情があることで、ある岐路に「決心」ができるようになる。

ペコは主人公でありながら、常に「見上げられてる」存在として、実際は多大な失態も含んでてもやはり輝いて見え、「実は彼に憧れてる」っていう感情を含みもった人間達こそが、この物語を見せている。

最後に、ペコのはつらつさは爆発し、暴走し、ギランギランに輝くわけですが、そのノビノビさもさながら、やっぱり、まず「憧れてる」人がどんなことまでしちゃうものか、を見せてくれたのは嬉しかったです。

 

ペコはただ、天才のまま、そのままであるのもいい。

才能、てもののありかたはこれでいいと思うんです。
天才ってものの生み出すものは、その「結果」そのもの、と同時に、そうした「彼」「彼女」ってものを見てる人間達の中に芽生える「感情」も、それに含まれる。天才や才能を目のあたりにできた人間は、その感情を忘れないし、自分が到達できるラインってものを推察するようになり、実際自分がどれだけのものかを試す気持ちくらいは芽生える。

だから、そうしたものを「見せる」作品は、なんて気持ちいいんだろう、と思った。
小細工な「物語」や「登場人物の描写」に凝るのでなく、作品の底辺にこびず、えばらずに、ただ「はい、天才」「ほら、才能」と自然体であってくれるのはなんといいものだろう。

W山氏をこの映画に誘ったのは、この映画には「憧れる」人間が描けていて、それも従来の邦画やテレビにあるベタな「あこがれ~」芝居でなく、普通の人がこっそり心に期待する姿、をしぐさ程度におさえるだけで、かえって思い入れてる様子になることを確認したかった。

 

それは芝居を作るサイドの人間が常々気付いていられた方がいいものだと思えた。

そうしたニュアンスの話がどーしてもしたかったのもあって、観劇に誘ったのであります。

この夏「スターウォーズ」でも「猫の恩返し」でもたどりつけなかった感情が「ピンポン」にはあり、それは見終わったあとの人間に「生活にとりいれるはずのなにか」を生みだしてくれる。「スカッとしたエンターテイメント!」ではなく、私は私に「欠けてる」部分を埋めてくるこの作品に参った。

誰にでも誘える映画、ってのとは違うんだけど、邦画はこの方向で進んでくれるとかなりいい雰囲気になるんだけどなぁ、とオススメしたい1作品でした。

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P.S 後年アニメ化され、原作の凄まじさをしりました。