深紅のコートが欲しかったのに | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

今朝までは固い固い決意でコートを買うつもりでいたのだ。
先月までのMac貧乏ですっかりエンゲル係数ばかり高まった生活からにわかながらの安息を得る給料日を突破し、まずはベルト、靴下を買い、さーて、コート、それも深紅!色はとにかく赤ときめてた。
それもゆるーい赤とか、あさーい赤とか、あわーい赤なんてななまっちょろい赤ではなく、マグマをも凌駕する戦慄の深い赤!を所望していたのです。んで、駐車場から車をだしたのに、まず床屋なんかにはいっちゃって、髪きっちゃって、さっぱりしちゃったので、いい気分で町を散策してたのに・・・・・・ない。

深紅の服なんて売ってない!
このアタクシの「買いたい魂」ともいうべき要望に応えるだけの服が店に売ってないのである。

買いたい、のである。つまりは店に期待してるだけのものがあれば買う気まんまんなのである。そのために幾許かのお札も用意しているのであって、鼻息ムフーでドーンと買う気まんまんなのである。

なのに、なのに!
店にはうすぼんやりした量産品のできあい服ばかりが(当たり前だ)ユニクローなつるんとしたデザインで、色合いで、どっさりと置いてあるだけである。

ここで🐼は昔、友人天才N田が言ってた台詞を思い出す。
「女性向けにはあんなにたくさんの服のデザインとか色があるのに・・・」
うむ、N田の言ってる通りだ。言ってた通りだ。男の服の遊びの少なさはなんだ。

市内を飛び出して、ホントに1日中服屋をめぐった。

都合4つの市をめぐったが、空寒いほどに「同じ服」があちこちに散らばってるだけで、とうとう頭に思い描く「深紅のコート」にめぐりあえず、実家に鳥羽土産を置いて一日を終えた。ちっ!

んで、ボーリング好きな某氏とかわした最近の雑談を思い出した。
「このごろ、店にいっても買いたいものって売ってないんだよね」
おう!
このことだったのかぁぁ!!
いやー、店の数、なんて問題じゃなくて、欲しいもの、ってのの絶対数が昔にくらべて、貧相になってきてるよな、このごろ、ってな話しだったんだけど、んもーまさにその通りなのよ。

で、こっちの欲求が「ひとりごちてる」せいから?とも思わないでもないんだけれど、そうでもないようだ、と感じるのは、人と話してて、結構な数の人が同じ悩みを言うのである。

買いたいつもりで店にいって、入ったところで欲しくなるものがないのだ、というのだ。服に限らない。

 

CDとか靴とか、少なくても昔は
店の中に一つくらいは「わぁ❤️となるホルモン分泌させるものが目についたもので、もちろんそんなのは「うわぁ・・・」と具体的にあきらめる額だったりしたんだけれど、それでも「欲しい!」という気持ちにはなれた訳で、そうした「つかみ」ってものにこのごろとんとごぶさたなのである。

ま、昨日、ポンと思いつきで「深紅!コート!」とか思い付いた程度の決心で突然いい物件(?)に辿り着こうってのは虫がいいのは承知だとしても、そのヒットレートの低さにはなんというか、へきえきとしたのです。


いや、🐼が「似たようなモンしかおいてねーよーな店しかしらねーんだろ」ってことでしたら、まー確かにそのとーりなんですが、いやいやいや、そんなんじゃなくてさ、「店」ってこんなに貧相でしたかしら?って話よ。

店ってのがこんだけ各町に存在してて、欲しいものが見当たらないってのはなにかの呪いか病気のような風景だ、と感じたのです。

なんといいますか、「生きにくい」という今の御時世のような漠とした不愉快なのです。

私が服について目が肥えているとはとーてー言いがたいので、そんな節穴の目ですら「いらねー」服ばっかりってのは、いささかどーも、どーもなんだかオカシイでしょ?

ファッションにうるさい人はじゃあどこかにお目当ての店ってのができてるんだろうな。

ユニクロも混んでたよ、日曜の朝っぱらから家族連れで混み混みでしたよ。
 

で、やっぱりなんだか似た格好なんですよ、みんな。うん、まぁ別にいいんだけど、色とか、はおってるものとか、なんといいますか、工夫の感じがなくって、ちょっぴり悲しい訳です。

 

いや、少なくとも、ワタクシなんかよりは羽振りのいい生活をしてる人たちなんですから、せーめーてーワタシなんかをいっそ「見下す!」くらいにはファッションしてて欲しいわけですが・・・んー、「シック」とかいうよりも「ホントはやってもいいエンジョイのひとつをとっくにあきらめてる」感じがするのです。

 

楽しそうでないのです。いや、私見なんでね、そんな、ね、強く言うつもりはないんだけれど、あー・・・疲れてるのかなぁ、みんな・・・ってのが
着てるものにでてるのね。「もーいーの」って感じで。

ま、服が分かりやすい話だったから書いたんだけど、みんなこのごろ「欲しいもの」に失速した感じ受けない?

私は感じるんです。それは受け手のセンサーの感度が落ちたんではなく、「売り手のセンス劣化」の方に感じるのです。

エラソーですね。エッセイなんでエラソーに言います。オホン。ゴホン。

実際、私はパソコンパーツやビデオ編集機器、光学機器なぞに感じる「物欲」は一向に衰えを見せず、いやむしろ前触れのない竜巻きのごとく一旦欲望が巻き起これば生活を圧迫するまで買い込むのはこの年令にしては異常な愚行であるはずだが、日々敢行しておる次第です。が、それが、なぜか、服やCDについては明らかに失速したものを感じるのだ。強いて言う、敢えて言うけど、私は「服」が心底欲しかったのである。

 

コートが欲しかったのである。

 

ただ、やっぱり着れればなんでもいい、ってもんでもない。そんなんじゃないけどさ、それでもなにがしかの「つかみ」は感じたかったのである。

今年の誕生日は大阪まで服を買いにいったのにも関わらず、「アレ?」って肩透かしを感じたのである。

なんじゃろ?世の中は微妙に「オカシイ」んじゃない?って自分のことはさておいて、ノーノーと感じるわけです。

欲しくもないもの、に囲まれている人間はあんまり幸せじゃないわけです。
なんとなく、たしかに「たくさん」のものがあるわけですが、たくさんってだけで要るもの、に欠くなぁ、とズバンと感じるのです。


社会は今「ズレ」ていないだろうか、とかSFな感じすら受けるわけです。
一斉の人々の欲求と、社会が用意できるものとの差が生まれてたまってきてるかな、という印象です。うまく言えてるかな。そんな感じを服から感じ、服の件は「象徴」だなぁ、と思ったのです。

ん~。コォ~トォ~・・・・欲しかったのに。
悔し紛れに「トライガンマキシマム」と「演劇ぶっく100号」買う。
演劇ぶっくには松尾スズキ、クドカン、後藤ひろひと、G2などなど、かなり多彩で多才な人たちがこんもり載っててかなり気分を持ち直した。
トライガン、やっぱええなぁ。レムの台詞には目頭ジンジンっすわ。