後悔しない・・だけを叶えるが為に人が費やす無尽蔵にも似た献身めいた本気度は、仏教に言う渇愛には違いないし、かなわぬからといって、後悔とするのもやや自意識も強いのかもしれぬとは思うのでした。
愛とか後悔にまつわることに、怯えるほどにまで至ってるのは人としてはむしろ不幸で、「それを達しなさ」に位置させたこと自体がしくじってる、とは思いもしないようです。
特段、そこに拘泥され解く必要も必然も本来なく、生まれてきたように無一物でやってきて、無所持で終えるのが人生が本来。
やりたいことをやる、は幸せそうにも思うけれど、それに伴う様々の準備や投資は、「気が済む」だけを目論んだ、自分初の衝動なだけで、価値かどうかはいささか怪しい。
やっとけばよかった・・全般も「やっとかなかった」だけがその人の最善であったわけで、そこを「その反対」を誦じてみせても、笑って捨てやれる気もするのです。
うん、まあ、一般的には「そーだよねー」と井戸端会議での盛り上げにはいいでしょうが、一個人としての真剣な話とするには、やや違う気もしてきますね。人によるのかなあ。