夜に買い物するものは | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

その日は美容室ってのにはじめて入って、ひどく緊張していたのかそこから出る時にはひどく疲れていたのを覚えてる。

美容室ではその日男の客は私だけで、それこそ隣の席に座ってる女性たちとカットしてるお兄さんとは「今度結婚式なので・・」とか「わたし、女子高なんで・・・」などという会話に囲まれて、私はといえば男性向けの髪型のたくさん載ってる雑誌からあんな髪やこんな髪と物色しているところなのだった。

ところで、髪型なんてのは、うまれてからこの方「凝った」ことがついぞなく、ましてや「自分のしたい髪型」なんてのもないし、それこそ人様に「こんなふうにして」なんていったこともないので美容室なんてところに入っておきながら(予約までしておきながら)椅子に座って仰向けにされて髪洗われたなんてのもはじめてで、おうおう!なんだよ美容室、どうなってんだよ、どーすんだよ、俺っ!とか今さらなんだか面白くてなすがままにされてみるか、などとやけに達観してたつもりだったけれど、いざ今まで我ながらみたことない髪型になって、やけにボリュームとか立てるとかいろいろされてなんだかじぶんらしいよーな、そーでないよーな感じになって、楽しいのには違いなかったけれど、さすがに緊張したのか、靴下買って部屋に戻ったら珍しく昼寝してしまった。

夜になって、鏡をみたら見なれぬ自分が写っていて、ナルホド、床屋と美容院ってーのはやっぱり仕事が違うなぁ、と心がうずくわけです。
「いつものよーにね」ってわけにはいかなかったし、髪を「すく」にしたってたしかにバリエーションの豊富さ、楽しさを考えると美容室ってのはなかなか楽しいのであります。

んで、フイに「感情」の方がやけに疼きまして、ながや、なんかたりねー感じしないか?と感情が訴えかけてきまして、テレビ見ても、ラジオ聴いても音楽聴いてもみたされないので、お、こりゃあ、あれだ。身近ななんかじゃみたされないな!とフイに気付きまして、しばし熟慮しましたらおお、そーか、これはあれだ!とハッとしまして、古本屋さんに直行した次第です。

1軒目の古本屋さんで「ヨコハマ買い出し紀行」の1~5、7と入手しましてこりゃあ、あれだ、6巻手にいれなくちゃ、イッキにラストまで読みたくなっちゃうときにエラいことよ!と発奮し、2軒目の本屋さんに直行したら7、10巻があり、なに!じゃ、タラネーのは8巻ってこと?とようやく「ヨコハマ買い出し紀行」が今10巻らしいとようやく理解して、3軒目の本屋さんでかろうじて8巻をみつけ、ひどく素敵な買い物をしたような気持ちになって、コンビニでオニギリ3つと熱くてオイシイお茶を買って部屋に戻る。

そう、感情が「足りないぞ」と叫んでいたわけです。
なんかしっくり気持ちがおさまらない、とか腑にに落ちない(このごろこの言い回しが好きです。頭では知ってても、腑(内臓)の方にしっくりこない、というのは気持ちの悪いことですし、放っておけない感じの表現にはぴったりというものです)のは、やっぱり「今、足りないよぉ」と正直で大切なものなんだと思うのです。
 

「ヨコハマ買い出し紀行」はやっぱり素敵な本でした。

風景がたくさんあって、まんがで描いていますが、音があるし、空気があるし、歌があるし、つまり絵、を使っていながら、そこから伝えようとしているものが「絵以外」のものであるという、柔らかさみたいなもので充ち満ちているわけです。

もちろん、私に足りなかったような気のしたものが、そこにはてんこもりに用意されていて、まだ半分も読みいたってないうちに、なんだかもううれしくなってきまして、おお、この感情をエッセイに、といま、こうして発奮しまくっておるわけです。

サミシイ、とかカナシイ、ウレシイ、クヤシイ、などなどの感情は時々たっぷりと空気にあててやらなくちゃいけない。

干したりさらしたりしなくちゃいけない。

しまいっぱなしって人がときどきいるけれど、あれははた目にわかりますね。

一方で感情だけですます人もよく分かりますね。
(すっかり思慮を脇にやってしまうことに躊躇しない人のことです)
 

いや、分かりやすいのはいいことです。

モチロン、そうした感情をもらいにゆくってのもあります。

私は時々、そうした感情の発見に血眼になることがあります。

幸い、今日、今さっきまで足りなかった感情がなにだったかが、今のこの幸福感でひじょうによくわかります

んー、ヨコハマ買い出し紀行はいいマンガですね。最近のアニメやマンガが置き忘れてきてたものを丸抱えで、おくれてやってきて「はーい、これでしょう」って届けてもらったみたいな安心でタップリしています。

さて、じゃあなんでこのエッセイのタイトルが「ヨコハマ買い出し紀行」でないのか、といいませば、そうなんです。

今日はヨコハマ買い出し紀行でみたされた感情も、明日になれば別のなにかにもとめているかもしれない、そんな「感情のうめ方」の着眼点に執着したいのです。

わたしたちは生きているとときどき「衝動」ってものにかられて、激しく動き出す時がある。大失敗に向かう時もあるし、輝ける成功に向かったり、対峙するものに立ち向かう時もあれば、やみくもに走るばかりの時だってある。

それは「量」のあるものであって、方向そのものは2次的なものだ。
まず「動き出したい!」という衝動なのだ。それが、私の場合、ハッキリと感情に「衝動」を覚えて、夜中に3軒の店をめぐった。

そして激しくうれしくなれたのだ。これは昼間の「美容室」からはじまった感情の発露だと思う。そしてこれが今回目論んでいた結果でもあるのだ。

いつもの、毎日の、くり返してた生活に、「凝って」しまえたことで、たしかに粗そうなく過ごせる生き方もあるとは思う。

でもそれは人の感情のなにかにこたえることではないし、いまひとつ、人間としての豊かさをもったいなくさせていると思うんです。

 

わたしはあんまり冒険のできない性格だけれど、これっぱかしの「はぐらかし」くらいは自分にしかけるし、単純なもんだから、案の定こうして心が揺らいでいるのがうれしいのだ。

ちゃんとこたえて、ちゃんと過ごすために、ちゃんとはぐれることもして、ちゃんと生きるがゆえに、ちゃんと笑うし、ちゃんと泣く、怒る、すねる、楽しむ。
人は感情の生き物だから、せめてきちんとそれにこたえてあげられた夜のなんとも煮え切らないエッセイでしたね。ふふふ。