まるで水がたまるように | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

夏がもう近いんでしょう、梅雨だというのに、その雨がさほどうっとおしくもなくなってきてまして、日ざしがなんとなく直線的に刺さる感じをうけるし、風もなんだかサッパリしたものを見つけやすくなってきました。

車で走ってて、ふと感じたのが、「このごろなんだか元気だな」ってことでして、返していえば、しばらくの間、なんだか本調子でなかったな、ということです。

不調の時ってなにかといらないことをしてバタバタ、いらないものを買って部屋はドタドタ、なんにつけおさまりがつかなくっていやぁ、な気持ちにゆるんでるんです。困ってるのになんともできない感じですな。

で、この頃は、今までに感じてた「なにをしてもとろとろと体から流れ出していたようなもの」が「きちんとたまる」ような感覚にシフトしてまして、ああ、俺、元気になろうとしてる、とおもうのです。

ん!いっておきますが、🐼は宗教をしません。

多分未来にわたってしません。

「信じてる人」を尊重はしますが、🐼には勧めないでくださいね。

ただ、自分の気持ちのことを言葉にすると、どうしても曖昧な言葉が増えちゃうもので、なにかとファンシーな単語が増えますな。

しばらくの間、本当に私は調子を落としてきてました。それに自覚があってもなかなかどうしようもない、ってのが人間です。そんな時、私は「待ち」ます。

さんざんあがいて、なんともならねーことに対しては早々に「待ち」ます。

それは「きっとなにか大丈夫なものが、周りからやってくる」と安心してる上のことです。

私の調子そのものではなく、周りの人が「はい、🐼」と放り込んでくる場合が今までにもたくさんあって、ああ、きっと今回もなんだか大丈夫だ、と達観(?)して待つのです。

実際、今週はじめまで、極端に困ってたことがありましたが、周りの人にすっかり助けられました。それは私が「助けて」というのではなく、なんとなしに察していただけて、それも複数の人が助けに動いてくれました。

結局、人というのは「ふだん見せている私」ってのが、他人の中に「アイツ」として覚えてもらっていて、その「アイツ」観から違うものに囲まれてたり、迫られていたりすると、「アイツらしくないかも」とたくさんの人が気付いてくれて、「どうした」と声をかけてくれるのでしょうか。
ああ、いいものだなぁ、と感じ入りました。(曖昧ですね、でもそうなんです)

体、というよりも、気持ちが水みたいに「たまる」感じをうける人、いませんか?私は毎日毎日まんがのことを考えています。いくつかのアイディアを思い付き、走り書きをし、こねくりまわし、いくつかのストックがあります。
それらのもの「量」がいくつある、というのに意味がありません。アイディアというのは「質」であり、「パンチ」です。
ドカンと一発!威力の話しです。

ですからたくさん時間をかけたところで、たくさん持っていたところで、たったひとつの冴えた思いつきの前に「まいりました」ってなります。
こん棒を持った原始人が100人いても、マシンガン持ったひとりに大敗するもんね

それらのアイディアってのも、なかなか心に「たまる」ことがないとするすると逃げ出していく感じなんです。

ひとつひとつは大事なものでも、持ってるだけじゃ腐る感じ、っていうのかな。

でもため続けていないと、大きなものには組み上がらない。
でもためあがる前にするするともれる。これが「不調」の感じ。

が、このごろ「きちんとたまる」感情が芽生えております。日常生活はどんどん忙しく、周りもなんだか放っておいてくれない感じでああ、これはきっと、感情をたっぷり使う時が戻ってきたんだな、と思うんです。

しばらく、わたしはたたんでいた感情があります。
いろいろ感じるためには、感情をうんと大きく広げておく必要があります。
そのときには、大きく感じるが故に、大きく怪我もします。
大怪我をしたら誰でも静養するでしょう?してました、静養。

鈴木彩子さんや矢井田瞳さんがテレビやビデオで「わたしはたくさんのものを全部背負って走る」といってくれた時に「ああ、いいことだ!」と感銘をうけつつ、「いや、でもそれは背負ったまま走れる人がいう台詞だ」とも思い、そうね、走れる人はそれで走るんならいいよね、と思いました。

私もいくつかの挑戦をして、じゃあ自分はどれだけは背負えるかをしばらくためして、ああ、ここまでは大丈夫。

ああ、ここからはダメ。

自分が壊れるまでがんばる、というのは、とても間違い。

自分が壊るまでがんばられても、周りの人は怒るし、こまる。

それにそれでは自分のがんばりのために、他人を巻き込む前提で走るようで、ずるい。

しばらく壊れてた自分の中の枠のようなものに、きちんと修理がなされて、きちんと感情がつもるように、たまるようになってきたら、それは自分が自分に「もう大丈夫そうです」とささやくことで、それが「元気のはじまり」の合図。

合図も気付かないままがむしゃらに「ガンバロー!」って叫ぶ人もいるけれど、そいつぁちょっと無責任だし、他人事すぎる。
がんばれたらがんばってるよ。それが人間。

がんばれないから、がんばらないことにする。それでいい。

だから、がんばれるのなら、がんばってみる。それはありよね。

それにはたっぷりと、自分の中の気持ちが水のようにたぷーん、たぷーんって気持ちがたまってなくちゃね。そればっかりはがんばれないし、じぶんで感じるまで安心して待てなくちゃね。

人間の60パーセントは水なんですね。水ですよ。水が歩いたり、考えたりしてるようなもんですよ。


ね。


じゃあ、気持ちもどこか水みたいなもんなのかもしんない。

するするともれる間はゆっくりしていなさい。

ちゃんと、水がたまるように気持ちがたまってきたら、自然に人はいい気持ちになる。
そのために、毎日の小さなことや悲しいことなんかにいちいちがっかりなんかしないで、「なんかやってくる面白いもの」を座って待ってるのも、なんだかいいじゃない。

そのために、あなたは、毎日、いつものあなたのままを、周りに見せていればいいのだ。
簡単なことよね。