アジアンカンフージェネレーション(と、茄子・アンダルシアの夏) | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年以上前に書かれたエッセイの再掲載です)

 

NARUTOのオープニングで一撃でノックアウトされた。
心臓を他人にわしづかみにされたような気分になって、泣きそうになりながらCDを買いにいった。

 

 

およそ、アニメのオープニングとも思えないジャケットのうえに「崩壊アンプリファー」などという、オープニング曲の入ったタイトルとも思えないマキシタイトルで、店頭で大いに迷った。

でも心は急いていて、店員さんに「あ、アジアンカンフーのっ!」とか、なんかヒデーことでも口走りそうな形相で検索してもらった。

車内に戻ってCDにかけたらもう別世界だった。
いい世界観なのだ。歌詞も、曲も、聴いてる人をどっかに放り込んでくれる力づくみたいなものがって、うれしくってしかたなかった。

これまででいうと、くるりやピロウズでみつけた時の感情のようなものがった。「あっ!」というキャッチーな気分にきっと演劇とかやってる人はエンディングとかでつかっちゃって、さっさと曲に負けちゃうような、そんなパンチがバシビシ決まってた。

で、15秒のCMスポットにすっかり心奪われてた私はアジアンカウンフーの二枚目を買ってしまった。

やっぱり歌詞にやられた。
なんだろ?この負けがこんでるのに突っ走る感じは?
勝ってる人間にどうしても感じられないカタルシスをかったい塊にして「ばかやろうっっっっっっぅ!」とか叫びながらぶつけてくる感じだ。
なんの解決にも向かわないかもしれないけれど、その時にたどり着けるある「感情」をむき出しに観られたうれしさみたいなものがあるんだな。

でね、うれしいのね。
ああ、そう、これよ、って思うのね。

「未来の破片」も素敵だけど、わたしは二曲目の「エントランス」って
曲が引っぱり込む世界観が大好きだ。

この二枚目を買う時に「茄子・アンダルシアの夏」が上映終わりというのでこの夏2度めに観劇にいったところだった。

 

 

 

この映画は大人の作品であって、大人達が自分達の生活の中で抱えるいくつかのことに「傷つききってしまう」その少し前をギリギリしながら突っ走る映画で、すばらしいのはそのスピード描写だ。
自転車のすばらしさもあるけれど、演出が生み出してる「スピード観」こそが一番の武器だと思う。

この作品の前に「トレジャープラネット」みてたから、そのディズニーの「無理矢理にでもハッピーエンド」に心底憎しみを覚えてた
あの「宝島」がなんてみすぼらしい世界観にされちまったんだ、とこのうえない憤慨を覚えてたから、「茄子~」の「救いはないけど、やるべきことはやあったぜ!」という大人故のガッツがうれしかった。

主人公に対して「好きよ!ペペ」と言ってしまえる大人達に「来んなー!」とさけんで振り向かない主人公が大好きだ!
ずるいぞ、みんな。さんざん見送っておきながら「好きだ!」だなんて言ってあげんなよ、って思えたのだ。ペペはペペの理由だけで走らせてあげなくちゃ!横からスイとやってきて、「応援」しちゃうだなんて、なんというか、虫がいいよ!って思えたのだ。

走ってる人間と、走るのを辞めた人間には、言葉にならない気持ちで大きな差がある。
せめて、走るのを辞めた人間は、走ってることをやめた幸せを隠してくれなくちゃ、って思えたのだ。

ペペにウェディングドレスをみせちゃってどーすんのさ!

お兄ちゃんが自転車で並走したがってどうすんのさ。

振り切る気持ちまでを自分のなけなしの武器にしちゃってる人間に、それはあんまりじゃないか!

だから、ペペのひとりで走ってゆく姿が嬉しかったのだ。
ちっともこの映画の中で「自分の感情」を吐露しない、その本当ぶりがうれしかったのだ。

自分を本気にさせるために、自分というボイラーの中へ「自分を幸せにするもの」まで投げ込んで火力を得る人間ってのはたしかにいるんだ。いるんだぞ。

そんな気持ちが、アジアンカンフージェネレーションにはいつも自然に備わっていて、ふわっ、とすくわれた気持ちになるのだ。
ああ、歌であるな、ってだけですくわれた気持ちになるのだ。

そんな余裕のないこというなよ、ながや、とかいわんといてな。
こんな余裕のないことがいえなくなっちゃうと、たどり着けない感情ってものもあんのよな。