本屋の消失が叫ばれて危惧されてるが、8ミリ映画やってた🐼にしてみれば街の写真屋さんが「いつの間にか」なくなってたことも、レコード屋もCD屋も、かつて仕事帰りに、たまの休みの素敵な暇つぶしに「のぞきにいく」場所だったのにとっくになくなちゃった。
本屋さんの減少を嘆くのなら、レンタルビデオDVD店の撤退も同価値に悲惨のはずです。
VHS、DVDにしかパッケージされてなかったタイトルの作品は数多かったし、廃盤や制作スタジオの消滅に伴い、いまや版権の問い合わせ先すら見つけ得ない映画がレンタル屋には埋蔵されてました。それがオンデマンドだのサブスクの媒体では片鱗も見つけられもしない。
たまに行く本屋さんではっとするのが、そこに居合わせてるのがご年配ばかりで、ヤングの姿はせいぜいたまに子供が・・くらい。若者は本屋さんに行ってない・・・のか、いかないで済ませられる、なのだから、こうなっているのだろう。
ふらっと行く先がない。
暇つぶしに立ち読みで過ごしたい。
そういった「ふらりと寄る」が喫茶以外になくなっていくとき、それは豊穣な世界って呼べるのかしら?なにか、なんというか・・・心の中の物騒を覚えるのね。この、「わかりにくい殺伐(さつばつ)」ってもう起こって現象だと思うんです。こころが、廃れていってるうえに、満たすための代替がない空虚さ。
色々アマゾンとかで買えたってさ、不思議と「かつては満ちてた」なにかは、埋まってないのよね。そこのはなしよ、これ。