そのフレーズがあったので | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは何年も前に書かれたエッセイです)

 

2003年冬、音楽はその勢いを静かにスピードを加えて、とても気持ちのよいところにきてる。おかげで私はいくつかの買い物をくり返しては喜んでそのスピードをゆだねる。

「くるり」からはじまって、「アジアンカンフージェネレーション」「レミオロメン」「スネオヘアー」の辺りがせき髄にくる。


せき髄にくるってのは、音楽を聴いてて、今、そこまでは停滞してた気持ちがふたをはずされて、本来のスピードを取り戻そうと駆け出しそうな時に、なんか具体的にホルモンだかそれっぽいものを分泌してるなって、背中に感じる音楽のことになるのかな。

実際、車なんかで聴いてるともうとたんにダメだ。まずスピードがあがるし、瞳孔が開くし、なんかやみくもに頑張れる錯覚に満たされて、なんだかだいじょうぶだ、やるぞ、やっちまうんだぞと、とたんにパーンってはじける気持ちとスピードを得るのだ。

音楽ってのより、曲、ですね。曲ものんべんだらりと「全体」じゃなく、ある「フレーズ」に触れたとたんに、ピシャーンって雷に打たれたように、なのになぜか心覚えがあって「ああっ!それ!待ってた!」って叫ぶような、デジャブのような、本気のような、はじめてのような驚きやら喜びやらごっちゃにして「押し寄せて」くるもんだから、その感情にあてはまる言葉や単語をすっかり忘れることにするのだ。「まず聞け!」とね。
 


坂本真綾「スクラップ」より
「君と暮らした風景には むきだしの傷が無数にあり
 少々の風で沁みるからまだ泣いたりしてる」

 

 

この曲は歌詞に比べてアップテンポでたたみこむように生きるスピードを提供してるから、ともするとやる気まんまんな曲に錯覚するんだけれど、その実、言葉の重みや含蓄が、それに心覚えのある人の心にぐっさり刺さる。

深く、大きく刺さるので、出血が大きくなる曲だ。

そむける顔の、そのどの方向にも心当たりがある曲っていうのは、どうやっても「向き合う」ことでしか、その感情に迎える準備をするしかない。
逃げたつもりにはなれるし、しまいこむことで「ない」ことのフリまではできるけれど、自分はもうその曲を知ってしまっているし、それが一番自分に深く傷を与えてくることで、それが自分の本気に一番近いことも分ってしまうから、もう放っておくのが自分への「嘘」なのだ。

心当たりのあることを曲が触ってくる。忘れようと決めてたことをグンとひろげてくるようなまねをする。痛い。とても痛い。痛い、っていうよりも削られてる感覚を覚えるのだ。その一方で、それにまだ傷がつけられる自分が少し安心するのだ。


くるり「ワンダーフォーゲル」より
「矢のように月日は過ぎて
 僕が息絶えた時
 渡り鳥のように何食わぬ顔で
 飛び続けるのかい」

 

 

この曲もアップテンポだ。だから誤解するんだけど、この歌詞は世に出回ってるJ-POPって中ではとても暴力的なものの方に映る。
分かりあおう、愛しあおうとむやみに愛を連発される啓蒙パンパンさの中でただもう淡白に「こうじゃないか」と肩に力なく、話してしまう姿はなんだか「王様の耳はロバの耳」みたいで、簡単だし、正直だし、ホッとさせてくれる。


「なぜ君はいつもそんなに輝いてるの」


っていう問いかけが、憧れでもなく、疑問でもないところから発せられる時に、ちょっとだけ、こちらが正気に戻るのだ。借り物でない性根を思い出すのだ。わたしたちはたっぷりと自分に、まっ先に、嘘を、許す。


レミオロメン「雨上がり」
「泥が飛び跳ねた自販機前 

 いつからか好きになってたコーヒー
 映る景色に変わる僕ら 思い出だけが増えていく」

 

 

このひらひらと舞い散ってくるようなイントロは坂本真綾さんの4THアルバムでも多用される気持ちよさ。これもやっぱり歌詞の割に軽快だ。
凛と立つ、たてる人間はそれでもいいけれど、ぼくたちが決心してきた時はいつもそんなに壮大な舞台なんかじゃなかったし、華麗なドラマがつみかさなってきてたわけでもなくって、毎日の日常生活にあって、まるで唐突のように誤解しながら、ただやみくもに、進みやすいから、くらいの理由で人生の帰路を「やり過ごす」ことの繰り返しだ。

この歌詞に続く歌詞がこうだ


「なにに悩んだか忘れながら」


生半可なバカだってしやしない軽率さを僕達は連発しながら、それがただ人に観られてないからって気持ちから、随分と生きる方向を見誤ってしまってきてた。

大きな決意のあとにもごはんを食べるし、コンビニにも行くし、友達と笑うのだ。

ぼくたちの決めてきたことだけでしか、ぼくたちのたどりつくところは決まってきてないというのに、ただ、進んでいるので精一杯な自分を振り返るときに、ふと、正気になる。「そうだった」と。


GOING UNDER GROUND「トワイライト」
「主役が君と僕の傍役のいないストーリー
 少しだけ勇気を出した 頼りない声しぼって」

 

 

正直に自分を見返すと、とんでもなくしょんぼりと、ただ小さく生きてることに気付いてしまうことがある。

でもその生き方の当事者の本気さや、そのときにはわからない不細工さまでが、あんまり一生懸命だし、その時にあるものでしかたどり着けない感情であることがわかると、今度はみすみすそこに生まれてる感情がうらやましくなってきて、嫉妬すら覚える。

本気になるときの人は、たいてい頼りない声になるもんだ。
かっこよく叫んでしまえる人なんて、神経がどっかイカレてるにちがいない。
まんがの読みすぎなのかも知れない。本気のときは、本人にとって、最高にかっこわるい瞬間のひとつになるかもしれない時にすぎない。

「『夢の中で泣いてみたよ』 強がったポーズの男の子」


人は男でも女でもなくって、人なんだ。それ以上でもそれ以下でもなくって、そこに放つ感情や気持ちに違いなんかまったくない。
かっこわるかったり、本気だったり、ただ、それだけなんだ。

「旅立つ勇気を 歩き出す勇気を
 いつも探してる いつも探してる」


ほら、知ってるじゃん。この気持ちを僕たちは知ってる。
だから他人事じゃなく、自分の曲にしてしまう。毎日を生きてるのに、ぼくたちは、ただ生きてしまう。

でもそんなんじゃなくって!ってさけぶにしてはぼくらの準備のなさと、才能のなさと、自信のなさで、人に指摘されるよりも先に、そうまっ先に自分を傷つけて、ガッカリしたことにみなして、今日も「旅立たない決意」をして、今日も「歩き出さない決意」をくり返してる
 

だから、毎日、きちんと生きてる。きちんと生きててることで、わかってしまう自分の本音に目をつぶる。他人にとやかくいわれることじゃないけれど、まっさきに、自分に、しょんぼりしてしまうことは、公然の秘密ってことになるし、周りも一斉にそんなもんだから、「みんなそうだし」なんて理由にならない理由に、腰を下ろすことを、明日も許す。
 


曲がそこにあって、そのフレーズを知ってしまうことで、それを知る前までとは違う形で自分を振り返る勇気のようなものをくれる。

そのなけなしの勇気を両腕でギュッとしながら、「今度こそ、今度こそは」って心臓バクバクいわせながら自分のしてきた「間違ってた自分」をコツンとやり、壊しきれないまま一抹の「やった!」感をたよりに、ただ今日もまた、ただ、生きる。

でも今日は違うんだ。だって今日はコツンとやったもの!というささいな成果を胸に、私達は明日も今日のような明日を生きる。それもあの曲があったからだ。

だから、昨日までとはちょっと違うんだ、って安心を一つ胸にたぐりよせる。

それが曲の、フレーズの威力なんですね。すごい。すごいですよ、音楽。