「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」なるフレーズにしびれる | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

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理づくめを適えた上でフィジカルにも充足を意識できる方が、一通り通った後にメンタリティに渡す言葉を示されると、「そうなるのか」と妙な説得力を覚えるのは🐼の偏見でしょうか。

 

ある大学の看護学部の先生のナースたちと看護をめぐって対談したことがありました。僕はその時に、ドクターというのは自然科学者だけれども、ナースというのは魔女の系譜を引き継ぐ呪術的な医療者であり、この二つの医療原理が習合しているところが近代医療の妙味であるというようなことを話したのです。その話がナースの方の気に入ったらしく、実はナースの中にはいろいろな特殊な能力を持つ人がいるという「ここだけの話」をしてくれました。

 

僕が対談したナースの方は「死期近い人のそばにゆくと屍臭がする」という能力をお持ちでした。だから、夜勤で病室を巡回する時、病室のドアを開けた時に屍臭がすると「この患者は朝までもたない」とわかる。同僚に似たような能力を持つ人がいて、その人の場合は、「死期近い人のそばにゆくと鐘の音がする」のだそうです。でも、二人がそんなことを言っても、ドクターたちは笑って相手にしなかった。まあ、そうですよね。

相棒のところの同僚の方にもこれに似通う体験を又聞きしました。実音ではない声や音などでそうした「わけの分からぬもの」が伝達されることがあるのだとか。

 

ところがある時に付近で大きな事故か何かがあって、救急に次々と重傷者が運ばれてくるということがあった。医療資源は有限ですから、助かる可能性のある患者から助けるという「トリアージ」をしなければならない。修羅場となった救急病棟で、ついにドクターたちがこの二人に向かって「この患者、屍臭してる? 鐘鳴ってる?」と訊き出したのだそうです。

 

人間が死にかかっているわけですから、当然、それなりの生理学的な変化は生じている。ただ、それがごく微細な情報なので、体温計とか血圧計というような通常の計測機器では感知できない。でも、その微細な情報を感知できる人がたまにいる。別に超能力ではありません。できあいの計測機器では検知できない感覚入力を感知できる敏感な感受性を持っているということです。計測機器の感度というごくごくアナログな差異の問題です。

ここぞ、というときに、間に合わない刹那に、勘のうちでも頼りにしていい勘に位置してたんだと拝察できる話に見受けます。そしてその判断で岐路が生まれていますね。

ハンカチは落としても音がしませんし、落とした後も、鬼は手の中にハンカチを握っている「ふり」をしていますから、自分の後ろにハンカチを落とされても、それについては視覚情報も聴覚情報も与えられません。でも、勘のよい子は、ハンカチが地面に落ちるより先に立ち上がって鬼を追い始めます。

 

この子はいったい何を感知していたのでしょう。たぶん鬼の心に兆した「一瞬の悪意」のようなものを感知しているのだと思います。「一瞬の悪意」が微細な足どりの変化、息づかいや体臭の変化として現れる。

 

これは小さな子どもが危険な環境を生き延びるためには、たいへん重要な能力だと思います。太古の時代に、人間たちの生活圏にはさまざまな危険がありました。異族や野獣と遭遇した時に、「戦って勝つ」という可能性は子どもにはまずありません。遭遇してから逃げ始めても間に合わない。

 

でも、危険なものに遭遇するよりはるか手前で「このままこの方に向かって歩き続けると『なんだか悪いこと』が起こりそうな感じがする」というアラートが鳴って、歩みを止めて、方向転換すれば、危険に遭遇しなくて済む。

察し、で機能するものは勘とか適当ではなく、経験則の線上にあり、イワレナキと切って捨てるには惜しいだけの論拠が言語化・理論化の「外枠」で息づいてると思うのです。

ワンイシューや凝り固まった判断基準の方こそ、その柔軟を損ねてたりしがちだし、理屈や合理に「そわない」からって排斥するのは狭量に過ぎません。わけなんかわかんないもので生き物は生きてるんですから、わけのわかんないままの内に潜むものを察しにかかる鋭敏の方をこそとるべきかもしれないじゃないですか。

 

わかるとは思いますが、🐼のオカルト礼賛じゃないですよこんなの。

「ただ、そうである」ってことは多々あるって言ってるだけのことです。

 

文明社会にもさまざまな「異族」や「野獣」は姿かたちを変えて蟠踞ばんきょしています。

 

例えば、SNSでの心ない書き込みのせいで自殺する人はいまも少なくありません。これは現代社会においても、「呪いの言葉」に人の命を奪うだけの力があることを示しています。「呪殺」なんて前近代のもので、もうそんな非科学的なものはなくなったと思っている人が多いかも知れませんが、そんなことはありませんよ。いまでも呪いは十分に有効です。だから、呪いの言葉を他人に投げつける人は多くが匿名を選びます。呪いが相手にうまく届かないと、それは発信者に戻ってくることを知っているからです。return to senderです。それを避けるために発信者名を明らかにしない。

 

ですから、僕はSNSの荒野を歩く時には、太古と同じように、「こっちへ行くと、何か悪いことが起こりそうな気がする」と感じたら、足を止めて、そっと方向転換するようにしています。ディスプレイに並ぶ文字列を遠くから一瞥しただけで「これは読んではいけない」ということがわかる。

「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」というものがこの世には存在します。存在するどころか、巷はそういうテクストにあふれています。そういうものにはできるだけ近づかない方がよい。それを遠くから感知してアラートが鳴るような設定にしておく。

とても重要な事が書いてあると思いました。

受け入れるばかりでは破裂もするし、過分な所持で参ることもありましょう。

 

「自分の内側に招き入れること」を選ばせるのは常に自分だけで、自分が許さないことは自分には入りません。

ゆえに、「入れる」としてしまう自分が、迂闊(うかつ)であっては、自己を傷めもするのです。迂闊(うかつ)でも愚かなままでも、相応に苦しむ道を開きます。

 

とかく「受け入れる」というのは、余裕や余白がある人でないと適わぬものなのです。

そこへ「傷むためのテキスト(文言・フレーズ)」を入りこませたり、しばらく滞留させていれば、毒が回るでしょう。

 

まず入れない。

しくじって入れちゃったら、早々に捨てる。

これらを怠らないことです。

 

日々の洗練は、洗浄でもあるわけです。禊(みそぎ)。