怒りは燃料になりますものね・・・なっちゃうんですよ。怒ってたことで、オクタン価をあげられる描写もわかります。
ユダヤの格言で「賢者は怒りを遅らせる」ってのをヤングの頃に知り、知見あるものはその場で怒りを表明したりして失点を稼ぐ愚挙はなさいませぬものよ、ってなフレーズに「できるかあああああああ!」と猛烈に悶え、もがいていました。
アンガーマネジメントって言葉を知ったとき、「え・・コントロールで済ます話にしていいの?」がファーストインプレッションでした。このホカホカの湯気のたってる怒りを、マネジメントの対象にするのは・・・なんというか、卑怯な気がしたんです。
だって鮮烈な怒りは、自身が怒るべくして怒った証(あかし)そのものでもあり、その「怒り方」という向きや観点、接触面にいちいち「理由がある」という独自性の塊ですものね。
誰一人、「自分と同じようには怒れてない」事実から、この怒りは、怒りこそが「自分のもの」という気がしたのです。
漫画「プラネテス」で主人公ハチマキが、自身が知らぬうちに宇宙技士の先生をがんで亡くなっていたことを誰からも知らされずに、自身の孤独がそれを追い打ちしたシーンがあります。
(アニメ版:22話)
自身の亡霊と葛藤するシーンが有りまして、そのセリフたちには随分心取られたものです。
優しい言葉をかけてくれる仲間にすら、断ずるようにハチマキが叫んだことばが
「うるさい!全部俺のもんだ。
孤独も・苦痛も・不安も・後悔も!
もったいなくてなぁ・・・
てめえなんかにやれるかよぉ!」
と言い放つ語感と意気地は、どこか他人事でない尋常のなさで、打ち震えたのを思い起こせるんです。全然何一つ正しくなく、見渡せる地平もなく、やみくもで、がさつで、やりようのない怒り。
なにかに転嫁するのか、点火のイグニッションキーなのかなんて、もはや思慮の外でさ、ひたすら怒りに任せるエネルギーがほとばしる。
ピュアな怒りだけが、なにかにたどり着けてる手応えで、それがなにだか、自身でも説明ができない。でも、でも、怒れてる自分がそこにはあって、代替する感情が見当たらない。
どうしようもなさだけでそこに立ち、もがきだしたい衝動はあっても、どうにも混沌が自分を縛り付けもする。
このコラムで扱った引用元の漫画は、別の結論にたどり着くものでしたが、温和以外の決着にだって、その時のその勢いだけがなにかを奏でた瞬間でだけ、通れた扉があると🐼は信じたいのでした。
つまり、マネジメントは控えめであろうかとしておるのです。悪因悪果の種として芽吹かせる愚であるのか?と問われれば、「やむなく、それでいきます」と答えたいときが人にはあるのです。そこはどうか、許してほしい。