童謡という発明 | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数十年前のエッセイです)

 

「その時、歴史は動いた」という番組で鈴木三重吉なる人物が、「赤い鳥」という本を創刊し、童謡を生み出すまでの話をやっていた。

私自身は幼少の頃から、この「童謡」がなんだか苦手だった。「赤い靴」にしても「かなりや」にしても、どこかもの悲しく、子供心になんでこんなに悲しそうな歌うたわされるのか不可解な気分をいつも持っていた。

とはいえ、その「赤い鳥」創刊の当時には「唱歌」なる軍歌ばかり、勇ましくまかり通る時代だったというナレーションがあり、子供が自由に歌える歌っていうものがなかったんだって。

芥川龍之介、北原白秋など、著名な人たちが寄稿した「赤い鳥」は「子供向け」として特化した雑誌として、当時は際立っていたのだ。

そもそも、今の時代なんてのに生まれついてる人間には、なんせ「当時」という想像力が追いつかない。「戦後、食糧不足で米がたべられない時・・・」「じゃあパンを食べたらいいじゃん」な世代なわけで、「子供」が「子供」でいられない頃があったという想像の仕方がすでに皆目わからないのであります。

自分が好きに歌いたいように、気持ちを使う、っていうことがなかった時代にあって、童謡が、どんなに子供の気持ちを「広げる」ものであったかという番組の構成はとても上手なものだった。

もう80、90歳に至ろうかというご老人が、幼少の頃に歌ってた童謡を、楽しそうに歌っているのは、なんていうのか、ものすごく豊かにみえたのだ。

覚えているし、うれしそうだし、思い出のようなものにくるまれている感じが、その映像の中に醸されていた。歌ひとつがこんなに気持ちよく人の心に入っているのがなんだかひどくうれしかったのだ。

童謡は戦時下に入り「軟弱」であるとして禁止されたそうなんですが、戦後は教科書にも掲載され、子供たちが胸を張って歌えるものになったんだって。

芥川先生の「蜘蛛の糸」はこの赤い鳥への寄稿だったそうですが、そのときの鈴木さんの評し方の言葉に「水際立っている」というものがあった。
うわ!すごい。いい言葉じゃない?水際立っている!!
鮮烈で、今、そこで生まれたった文学が、今にも消え入りそうに思わせる「新鮮さ」を表現するのに素敵にぴったりな言葉じゃない?

言葉に張りがあって、その意味するものに新鮮さを与える、この明治~大正時代の言語感覚って「発明品」って感じがして、大好きなのです。丁寧だし、真摯だし、手抜いてない言葉で、相手にきちんと対峙している感じがする。

日本語・標準語は森鴎外、夏目漱石をはじめ、文学の上から発明されてきたっていうのは本当だと思う。

江戸弁ではなく、標準語という、存在してなかった言語が日本の共通言語になりえたのは、どこか機能として洗練されてたんだと思うんです。

使うに足り、伝えるに端的簡明、ゆえに人々に流布し、洗練された言語として広まったと思うんですよ、うん。

英単語の日常会話での多用について、苦言申し上げるお偉方がいるようですが、それは日本人が多様化してる概念や発明品にきちんとした「単語」を与えなくなってきてるせいでしょ?

英語やフランス語で引用に足るボキャブラリーがすでに完成しているから使うってだけなんでしょ?

言語の、そのスピードの遅さが問題な訳なんでしょう?

フリーター問題、国民年金問題、「解決しなくちゃ!」が先に立ってて、なんでそれが発生しつづけているかに頓着がない。

馬鹿であります。

愚かであります。

 

就職がすばらしいものであれば、若者は就職していますとも。就職でまかないきれない大きな問題があるから、フリーターが最善の解決策であるから、そこに流れ込んでる人数が多いってことでしょ?

社会の側が、要望ってものに対して「無力」である点は指摘されないままでいいの?ほんっと、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

若い人たちは直感で胡散臭いところから逃避していい権利があると思う。
思考なしに現状を支持してしまった人には相応に苦渋を覚悟してなかった愚かさが罰にあたるとおもう。

(つまり、フリーターの問題を「就職させる」とか「させやすくする」というのをゴールと考えるって点ですでに激しく愚かなのです。若者が「就職したらやばい」ことを感じ取ってるって点についての視野がまったくないのはいささかゆとりのない様ですね)

童謡、がその時代に「発明」されて、それまで唱歌という、鈴木さん言うところの「石ころをなめるように味わいのない」歌から、自分のリズムに「歌う」ことをもってこれた子供は、きっとものすごくうれしかったと思う。
(これも秀逸な例え言葉ですな。いやいや、実に感服。そしてうっとり)

かつて、「百貨店」を発明したブーシコー、「旅行」を発明したクックなど、人間の「感覚」を豊かに、おおらかに広げた人物たちの感性に、この「童謡」も含めていいと思う。感性の拡大・開放。これなしに、人は「いい気分」なんかになれやしないのだ。不特定多数の「みんな」をいい気分にして、人間として一層素敵になれるかも!!を予感させる発明品をする人間が大好きだ!手塚治虫先生もあの時代にあの未来!あの世界!あの風景を、雑誌というちっぽけなエリアから発信して、いまや日本のコンテンツ文化、いやいや、ロボット文化の基本にまでそのエッセンスを生かし続けているじゃないですか。

自分が発想したもので、いっそう人まで巻き込むくらいに大きな想像力を叫び続けるとそれは「みんなの未来」になって大きく花ひらく。宇宙ロケット然り。万博然り。
僕らは明るい未来ってやつに飢えている。このごろ見当たる未来の映画は電脳化されて暗くて重たい。

今こそ、今こそでかくて、見たことのない風景を背負い込んだすばらしい未来が必要なときなんだな。だって21世紀初頭なんだもの!!!
童謡のように、子供たちを老人に至らしめてまで、まだ歌わせる魅力でくるむように、私たちは自然に飲み込める大きくてふくよかな未来を、ただ、欲しているだけなのだ!