(これは数十年前のエッセイです)
人生が思った通りじゃ無いから、といってカナシー気分にひたってみて「うっとり」できる性格じゃないし、そういうセンシティブな生き方をしたこともないので、つまるところ「ガサツなんかじゃありません!」程度の自信くらいしかありませんけど、おかげで日々ガッツリ過ごしております。
「落ち込みきらせない」生き方ってのもアリなんでしょうけど、日々を「ちゃんと過ごす」って決めてる人には、どこかで「落ち込んでしまうようなことには手を出さない」っていう自己防衛本能が働いてしまうんですよね。
んで自分では「保守」とか思いたくないんだよなー
「ラジカルに保守」だなんて、くっ、なんてかっこわるいんだ。カッチョワリー。
んでんで、自分のペースなんてのが発揮できてて、さーどうよ、自分、今幸せ?
なんてはかるのも、どこかなんだか「計算づく」を感じてワザトラシー幸せよね、とかも思うんよ。ん、なんだかね。
まー、そーゆー「なんか考えて、生きる」っていうのは、どーも言葉まけしちゃう。思考でつかめる幸せなんてないもんな。
フツーに幸せで、フツーに考えないで、自然体でいたいのが人っつーもんです。
ま、その「フツー」ってのが曲者よね。
誰にも表現が統一できやしないこの「フツー」であるために、日々けっこうな時間と労力を、私達はヒーヒー言いながら「つかみとろうと」してるような気になってる。うん。なぜだか。
手を休めるだけで
「気付く」だけで
体の発する言葉に耳を傾けることで
手に入りそうな、「フツー」を
ズイブンと「遠回りして、がんばったんだから」という免罪符付きでありがたがろうとしてしまう、自分をよく見かける。カッチョワリー。
努力して、がんばって、つかみとって、というトロフィーな生き方なんてーのは一体どーゆー教育の上にうまれてきてるんだろう。世の中の圧倒的なものはそういうものの上で動いていないというのに。でしょ。
ま、これはエッセーなので、結論をもとめるものではないからつらつら書けますけど、なんか、しばってるなー、自分を、ってものを年々「メンドくさく」もなってきます。
遊んでいたい、とも思ってません。
遊ばないで済む、って方がいいな、とか思う方ですんで。
気晴らしが上手、になれなくてもいいんです。
気晴らし、がいらない生活になればいいんです。でしょ?
それが「フツー」であれば、そんで、ある意味ではゴールを手に入れている。
あとはその「くり返し」として「何度」も「フツー」であろうとするために「がんばる」んだろうな。あああああああああ、もう、どうなのよ?その生き方は。
ショージキだけどさ、際限ないじゃん、とか思わないー?どうよ?
そーゆー「ユルーイ」真綿のしめつけで、日々「がんばる」というおおらかにトリックのような幸せに立ち向かう、まったく強固でないオレイズムな、呑気なガッツってのもある、って、誰かいってくんねーかなーって思うのよ。
近いところでは「フリクリ」にそれを少し見つけた。「バタアシ金魚」にも少し、その感覚に似たものを見つけた。
だってさー
そーゆー過ごし方でいる人の方が圧倒的でもありませんかー
つまりさー
けっこうみんな幸せじゃん、って思うんですよ。
つらい
ことはあるよ。モチロン。
毎日の生活の中じゃ「つらい」「カナシー」は「タノシー」と「ゆかーい」と同じ回数分がサラダボールのように混在して、たわわに実っておるしね。
「どこをクローズアップしてみたか」でしかない。でしょ?
んんー
なにかに肉迫しようと、けれどそれを「だらしないまま」したい!っていう我ながら意欲的な試みなんだけど、けっこーいいな、これ。結論に近付いてるか遠くなっていってるのかわかんないけど、輪郭をグイグイとシルエットに描くことにはうまくいってるな。うん、ヨシ。
久々にね、感情をたっぷり使ってやろうと今日は思ったんですけど、それでやったのが「まんがを読む」ってことなんですけど、一見それは「気晴らし」に変わりなく、決して「意欲的な」ものには端には映らないでしょ?かーといって「これはかくも気晴らしに候。御意見無用」なアピールも不要。
それって「フツー」にふだんしてる自己回復なんだな。無意識に。
んーんー
そんでもそれがね、すっごくある私の大事な部分をぐん、ググーンと押し広げた感覚を得たの。ま、それがなんだかやたらにうれしくてね。うれしかったんさ。
毎日は、毎日ってものはやっぱりどこか大変で一生懸命でがんばっちゃうもんなんですけど「元気でなくっちゃ」とか「健康でなくっちゃ」という「そーゆー病気みたいな平和」はノーサンキューである、と。うむ。
フツー、という「しないで済む主張」。
うまくとらえて、かつ、わかりやすい表現にお目にかかりたいものですな。