ちっちゃなものが、こんもりするとき | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数十年前のエッセイです)

その日、大学の友人を空港で待ち合わせました。

その子をのせて、今度はJICA支部に仕事を終えた、もう一人の大学友人を迎えに行きました。
かれこれ3~7年ぶりに再開した私達はながや実家でバーベキューしました。

🐼家一家が珍しく揃い、その中で物おじせずに、私の友人達は、昔とちっとも変わりのない存在のまま、ありのままに普通に笑って過ごしました。

私の実家にせよ、今住んでいるところにせよ、特筆できる観光目玉はなく、また友人達もそうした観光目的がなく、ただ来るので、ただ応ずる以上に考えることもないやりとりは、いいものです。

(友人達は私の誕生日に合わせて地元にきてくれた次第です。うれしいですねえ)
(でも年令のことを考えるとそうそう楽しいわけでもないんですよ、ええ)


翌日、友人のひとりを空港で見送り、残った友人とお風呂に入り、浜松でうなぎを食べました。昨晩の歓待は家族にお世話になったのでお土産を買って帰りました。

 

なんかこう、気晴らしが上手にできました。

すっごく、疲れて悩んで困った毎日が続いてたんです。まだ続くと思うんだけど、見事に切り抜けます。それでもやっぱり少しづつでも疲弊はしてしまうんですね。
人ですから。頑丈なだけではありません。くたびれますし、へこみます。

そこに絶妙なタイミングで、友人がふたり来ました。
二人は私のくたくたな事情は知ってますが、私も進んで「相談にのって」と言う人でもないのです。そんな3人が、ただ、私の知ってる町で、とろとろと過ごした、たったそれだけの2日休みでしたけど、なんかね、元気出たんですよ。ぎゅん、とね。

疲れてると分かってても、「がんばって」元気なんかでやしないですもんね。
自分で創意工夫でできる「元気づけ」って、自分の解釈や大きさを越えやしないじゃないですか。もしくは「どこかもしかしたら元気になるかも」っていうギャンブル度も高いですよね。

こういう時は、自分が感知しないところから放り込まれるようにやってくる友だち、くらいのサプライズが一番効くんです。

友人達も人間なので似たようなもんですよ。個々人で悩んでるし、困ってるし、がんばってる。お互いに交差しない悩みを持ってる人たちが寄ったところでそうそう大した結論なんかでやしないんですけどね、ははは。

でもさー

そばに友だちがいるっていうのは、なんか、埋まるんですよ。
心の隙間みたいなのがね。モリッとね。

 

解決、がしたいわけじゃなくてさ、
ほんの少しの一歩を、思い切れない時の一歩を、なんもいわんとスイ、と後ろから見送ってる人がおったなぁ、と分かること。これは、いいもんです。

見送ってるだけ、ですから助言もアドバイスもあんまり期待できません。
友人とはいえ、単語は合わないし、人格も生きるペースも違うんですから、正直なところお互いにあんまり役にたたないわけです。たちやしない。たちやしないのに、そこにいてくれる。たってもたたなくてもそこにいてくれる。
そばにいなくたって、どこかに、いてくれる。
うれしいなあ。
役にたってくれないのに、うれしいんだなあ。こーゆーのが。

家族もそう。
友人が来るから、って準備してくれてたバーベキューはやっぱりうれしかった。
日常生活の中からできる加減で、私の友人って理由だけで、準備してくれたのはうれしかった。

ああ、こういうのは、買えないもんだよなあ
がんばって成立したものでなく、私の周りの人たちの小さいかも知れない優しさがもりっ、もりっ、って積もった感じの小さなふくらみのような小山が、家族、友人の持ち寄りで出来上がってて、その全部が自分経由で、なにかの機会にその場所に派手じゃないかもしれないけれど、そろうと言う贅沢、を目の当たりにしました。

 

上手く言えないし、目にも見えないものが、うれしくさせるんですよね、人を。
誰彼が決め手のある台詞を吐くでなし、かっこいいキメポーズがあるでなし、毎日の、普通の生活の中で持ち寄ったちいさなものが、ガゼン威力を発揮する瞬間を今回感じたんです。

友よ!家族よ!ありがとう!
なんてなもんじゃなく、

たまに会うってのも悪くないね。
そーゆーわけでまた来てよ。

っていう照れ隠しみたいな正直さだけで、お互いに依存してもいいですよね。
お互い様だから、持ち寄るのはちっぽけな、毎度な程度の優しさなんだけど、それでいいよね。この自然さってだけこそが、一番の妙薬なんです。

 

自分は、調子を崩した時、っていうのは「もとに、普通にもどりたい」が一番の気持ちなわけですから、「がんばって」調子を戻そうとするなんてのはそもそも動機が不純ですとも。がんばっちゃう、なんてのは「普通」に一番遠いものですよね?
自分を素に戻すもの。力加減や工夫、知恵とか情報とかいう「治療」ではないもので、すんなり自分が「ああ、自分は・・・こういう人だった。ふふっ」ってすこーし笑うだけでヨシってなれば十分。満タンです。

 

あともうひとつ。前作のエッセイでとにかくへこんでいた私をブログで励ましてくれていた子がいました。

私のサイトではなく、その子のサイトで。うれしかったよ。もんのすごく元気でましたもん。

こっそり、ひっそり、でも俄然応援してくれてた。ひけらかすためでなく、見せるためでもない、そうした静かな静かな心根は、乾いた心にはぐんぐんしみいるのです。
ありがとう。みんなありがとう。スロースタートだけど、元気だしていくかんね。
やるかんね。見ててね。

P.S

当時のエッセイはこう書いているが、現在ではある程度出入りをご容赦願うことが増えました。今、あなたにあってしまい、話を聞いてるだけの余録が自身にないときってのもあって、それでもこっちの素性に関係なくねじ込んでしまう立ちの人を、予感し、避けてしまってもいます。

けど、それはそーゆー時期のものなので、相手もわかってくれてると思うのね。うん。