https://ddnavi.com/serial/1270126/a/
病名があてがわれるようになって、病気に部類できるように社会制度的な間に合いがあってくれるけれど、昔だとこうした初版の症状は、変わった子扱いだったり、変な子扱いで締め出されたりしたのを覚えています。
仕事でアルバイトの子のうちに、この発症をした子を何人も請け負ったけれど、個性の一つにしか感じなかったし、感受性は豊かなものですから、気は効くし基本的に優しい側面がすごくあります。
ただ、多感さが当人には仇になることが幾度も垣間見れましたし、仕事中にバックヤードで血だらけになってるなんてな凄惨すんでの景色も見てまいりました。
日々の中に生きるってのが、困難さを覚えてる子らにどこまで手を貸せて、どこからは越権なのかの線引は難しかったですが、概して嫌いにはなれなかったし、願わくば彼ら彼女らにそぐう住処(すみか)が見つかるといいなって思ってました。
世にいう「普通」ってので責め立てられ始めて、追い立てられた気がしてきて、他者以上に自身が自分を痛めつけ始めてこじれだす景色に、傍目には見えることでしょう。
けれど、当事者にしてみれば、その突端は明らかに複数の周囲の状況や無茶振りに、自身の許容値を大きくハズレる枠外まで頑張った挙げ句の苦悶の結果まで、踏みにじられるような心地を、幾度となく与え続けられても居るのは、見てても「そうなるわな」って思いもしました。
決して我慢をしてないわけではなく、人一倍気も使い、自身の矜持(きょうじ)も曲げてまで迎合を諮(はか)りもしました。
なのに、ってことです。
なのに、社会の方は全く折れてくれませんでした、って絶望から始まります。
鬱とか精神疾患の方々にも通じます。
人間が駄目、ってカテゴリーしやすさくらいしか、思案や感性の幅のない人ほど、簡単なくくりに逸(はや)る愚を犯し、一人の他人に人生を雑にあしらいますけど、あれってずいぶんな態度ですよ?
すごく慇懃無礼だし、想像力の欠けっぷりが半端ではない。卑怯でもあります。
不得意なところにも、こころ配るつもりのある人を、ないがしろにして、切って捨ててみせるのは、安逸だし、憐憫ですくにかかるのも正直無礼で、人の本質を軽んじてますよ。
綺麗事を言ってるんではなく、このまるで「枠外」みたいな人のうちにこそ、コミュニティ全体を豊穣で楽しくって、余裕多めにタフネスにする因子がごまんとあるってのに、そうした進捗の種を、萌芽の以前で摘み取り破棄する頭の悪さには、🐼は心底憤慨しているのです。これは小学生来の、ずっとネジ曲がらぬ印象です。
社会保障や、ケアが誤解されがちなのは、それは憐憫や見下げを時々放り込んだりぶつけてきたりするド阿呆を見かけるからです。
言い換えますと「君には耳は2つもあるけれど、一つあれば聞こえるのに、2つもあって変なの!」って罵られるようなものです。いいがかりですよ、そんなの、って次元で、こうした社会的弱者に「追い込まれて」黙って請け負ってくれている。
これがこんな荒ぶって理不尽だらけな世の中で、健常であったり、普通であったりできるくらい「おかしいタフさ」のひとらの感性基準でターゲットされるんだもの、きっついさ。
基準点がしくじった制度設計こそなじられるべきなのに、そこいらへんが妙にバタ臭くって、良くなっていかないのね。
されど、文句いっておしまい、にするようでもないので、いくらかでも猫パンチお見舞いしながら生きていく過程で、この記事のまんがのような表出があると、いくらか息をしやすくなるなあってすごく思うのです。