母が台所に立たなくなってから優に一ヶ月は経っていますし、入院後は冷蔵庫の中の「もうたぶん母も捨てるかどうかすら検討もしてなかったもの」を断捨離し、スッカスカの冷蔵庫状態にようやく至れた昨今。
炊事もすれば洗い物もするわけですが、🐼は大の「セスキ炭酸ソーダ」信奉者であり、洗い物や焦げ付き、端々の汚れに「これでもか!」とこのアイテムを多用し、ピッカピカにします。
三角コーナーもピッカピカにします。
お風呂場・洗面所もパイプユニッシュを多用し、髪ゴミや不浄を洗い落とせる限りおとしまくています。
これら流れもの付近の洗浄をするのは、自分なりの訳がありました。
水回りの最後の出口付近ってものはですね、その都度の「自分の口の中」くらいに思え、ってな教えが自分にはあってですね。実際そこが磨けないくらいの精神状態では、その他のことも「同じくらい気づけない」なるポリシーが根付いています。
精神論、みたいにうがって見られると少々狼狽(ろうばい)しちゃうんですけれど、困ってる時、弱ってるときはまっさきに「トイレ掃除」をはじめるんです。
そこの状態も、やっぱ「自分の体内の状況」に見立てて多分に間違いないです。
体から出たものを通す場所、って意味では、体の口腔内を「経由した先」って意味では、「そこも体」です。根詰まりは阻止すべきですし、そこが軽妙にキレイで使い勝手が良ければ、体内に摂り込むもまた快適にスムーズで有益に作用させる余地があります。
断捨離の精神性もこれに通じてると思うんです。
実際、今回の母の入院中、🐼はしきりに掃除をする回数を増やしました。
そして手の入り込んだ念入りの清掃日は、決まって母か病院から吉報が舞い込む日になりました。
返せば、「手抜いて黙ってぼんやり過ごした日」は本当に改善もなければ、吉報も訪れませんでした。見事なほど、明暗がつくんです。
これらを気のせい、と呼ぶ人は、少し間違ってる気すらしてます。
やってることは、つながってますので、結果があるんです。
報いを🐼は求める人です。そういう気質がいつもあるのです。
そう合ってほしい、であって、報いがないから、と凹むとか怒るってのはないにしても、「あって欲しい」は損なった心持ちがないのです。
ですので、おおごとにまみれ、さいなまれ、逃げおおせないときほど、大急ぎでおおがかりな清掃に走るんです。
自分の周りを整頓しにかかり、スムーズに使いやすく、見つけやすくしておく。適う準備は済ませておき、有事のおおがかりに集中できる余録を自身に用意しておく。
そしてそれは、今回も有効でした。
朝の食事を終えた後、洗い物を食器棚に戻しながら、母が「その配置」にした各食器類の概ねの順番、配置に倣う収納を踏襲(とうしゅう)しています。
なるほど、母の置いてたとおりに置くことで、皿も陶器も倒れにくく、互いにぶつかりもしない配置が適ってました。
そして、母が帰ってきて、食器の位置を見失うことなくこれらを使えるように、🐼は待ってたのですから。