あきらめ、の使い方 | アメブロなpandaheavenブログ

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最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

(これは数年前のエッセイです)

 

あきらめないで済むようになってしまう時代なのね。

ネット時代になり、20年も30年も前の曲が手に入るようになった。廃盤になってたり、店頭に置かれなくなった商品をかつては「あきらめる」で済ますしかない状態だった。LPという単語は死語になり、ああ、弱ったと思いきや、今度はレコードプレーヤーの方が『MP3にも対応などというものが出てくるのね。

「あきらめる」ことが難しくなってきた時代、とも言える。
なんとかなる、という希望的なものではなく、「あきらめないでいる」ことが永らえてしまい、いっそ「あきらめる」ことなんてないぜ、と転嫁しているせいか「なんでなんとかなんないんだよ」と怒りに似た感情が強まる傾向が強くなっているんじゃないだろうか。

あきらめる、ことの回数が減れば「なんとかなる」感情も強化され、なんとかならないことに直面するごとに、それまで「あきらめる」と腑に落として済ましたことが、腑に落とせなくなる。
「おかしい」と考えやすくなる。自分が悪くなく、周りが悪いんだと考えやすくなる。

周りが悪い、だなんて、ないのです。起こるべくして起こることばかりであって、自分に都合の悪いものが嫌なこと、であっても、それはそのまま腑に落とすことを、どこか覚えなくてはならない。

そう、覚えなくてはならない。
我慢、とかあきらめる、というのは天賦のものではなく、体験則から得る「見つめなおし」なのだ。
これが上手にできるかできないかでは、生き方が大きく変わる。「我慢」も「あきらめ」も自分の中で醸造される、完成までに時間のかかる感覚であり、自分の得心のゆく結果に必ずしも至らないものでもあります。

他人のとやかく言われても、自分ではこう思うしかない、と自分がした決断に準じた考え方になる。

誰にも強要はされないけれど、自分がした決心分だけの「苦しさ」も伴う。
そのかわり、きちんとあきらめられたものは、その分「もちこたえる自分」の量も加減がつき執着から出る「自分自身への毒」も軽減される。
いろいろ囲い持とうとすれば、持った分だけ、維持に手間ひまがかかる。心も、お金も、同じ。

あきらめない、ということは、背負い込む、ということ。
ずっと、背負い込み続ける、ということ。

思い通りじゃない、ということは、さほど不幸ではないのだ。
自分の思う通りじゃない、ということは、周りの流れの中にあって、自然に寄り添えなかった理由があったんだと思う。

当事者にはそんなこと、言えたもんじゃないけれど、不幸の渦中の真っ最中なんだろうけれど、5年先、10年先の「自分」は「今の自分」の延長上にいるとは限らないのだ。
例え1秒先の自分であっても、「今」だった自分はすでに過去の自分。

なんもかもあきらめよ、っていってんじゃないよ。
なんにも執着するな、っていってんでもないよ。
こだわれない人、に人間味は薄いし、面白くないって人はわんさかいます。

あきらめる、ことを無用に恐れたり、頑固に「あきらめない!」って叫んでみたりするのは当初の目的とは外れた行動だと思う。「あきらめない」ときはいろんなケースがあり、なにもかもをあきらめない、人なんてのは自分から出る毒に自分でまいってしまうものだ。

いざ、というときに、適量で適材な加減で「あきらめる」ことを知っておく訓練を課していないと自分も周りも非常に迷惑や混沌を招いてしまうものを、分かっているべきだ。

「あきらめない」ことで、周りを渾沌と不安と迷惑で満たしても、それでも「あきらめない」でいることがあったっていい。それは自分が貫き通す、ってことで被る実害も、合点づくで背負い込む覚悟が前提だ。それから連なり起こる事態まで、その時に気付かなかった将来までを囲い込むことだ。

あきらめる、もあきらめない、も、自分の中だけでした決意でしかなく、それをしたり、しなかったりすることで、今度は行動が伴い、行動になった時点で周りの人がそれに反応して、環境を変えてゆく。変わってしまった環境の中で自分、という単位が、生きていくのだから、やっぱり自分がした「あきらめ」の加減がまるまる返ってきますね。

どう決めてもいいの。
「あきらめる」ことについては知っておいた方がいいと思う。


嫌々覚えるよりも、いざ、あきらめるしかない事態に至った時に、加減の利く使い方をするのならば人生最大のピンチだって「ちょっとしたスパイス」程度に調整ができるようになる。
 

生きやすく日和れ、っていってんでもないよ。ただ、この「あきらめ」の感情をちゃんと把握しないままでいると、極端な話「自殺」とか「世の中が嫌になって、他人を無差別に殺傷」につながる人があまりにも多く、余りにもそうした人が、そのまま世の中にさらされ過ぎている。
 

自分も、他人も、殺してはいけない。そんなことわかってる。わかってるけど、それをする人の多いこと。

つまりは、「決定的に怒りがMAXに至ったら、どうなったって、他人も、自分もかまやしねえ!」という雑さで、つまりやけっぱちで、決定的な、後戻りのできない、必ず後悔の伴う捨て鉢な行動が、どこか世の中の方が「許して、放置してる」感じがするのだ。
だから自衛の意味でも「あきらめ」については慣れ、親しんでおくべきなのだ。

連発してはいけないし、使わな過ぎても心が病気になる。それがあきらめ、という加減なんでしょう。