引きこもりってさ、よくその当事者を揶揄しやすくさせてるけどさ、「引きこもりに追い込んだ側」が無罪放免かっていうと、正直「加害」の匂いが発つことがあるんだよね。
「それさえなけりゃ、こうはならなかった」と覚える人が、いると思うんだ。
そう思えてしまった事自体が、もう、ひとつの答えでもあるし、その解決が存外威力を持ちもする。
解消に逸(はや)れば、いくらか事態は変容なり変化を催すけれど、引き返せなさも伴いだします。
それを勇気と呼ぶのか、英断とみなすのか、悪手に拍車をかけただけなのか。
それは当事者自身が答えを持たされる過酷さもある。
けれど「それでも事態を薦める」は「今じゃないなにか」には遷移できる。
その上で「事態を進めるべきか」の軸足に、後々「あのとき慎重でいたか?」を思い返すマイルストーンになる。
でもね、生きるって、決めて過ごすことの重なりだからね。
どう決めても、どう決めなくても、辿り着く先があるのよね。