挫折というものは不意に来るものだし、心は「成功する」ケースにしか準じた準備をしていないという怠りがあるので、どうしたってショックが大きい。
挫折を軽減することは実は事前にできる。
期待をうんと少なく分量すれば、そもそも挫折に分類させないで済ませられる。
その意味では挫折はマッチポンプに近い。
期待を上げた自分は「なんの罪にも咎めない」からこそ、挫折事項には「わけがわからない」に分類させやすい。
望みだした自分、高みであったはずの自分、が「そうではない」という、ごく局地的な拒否に、滅多打ちになってしまう。
これは実に人らしい感性の話で、脳内のお城に住んでいた人ほど、そのショックをきつく覚える。
事情やいきさつのうちに、自分に恵まれるはずだったものが巡ってこないのだとしたら、不運ではあるけれど、「それもそのときの答え」であり、こちらの否応の外に準拠した現実って意味では、手の出しようのないことでした。
詮無きこと、といわれる部分なんかに自分が揺さぶられるのだから、ショックは大きなもののはずです。悲しいでしょうし、苦しいでしょう。
そこに見えるものを、
そこで得た感覚を、
どうか自身の生き様のうちに埋め込んでほしい。
ただならぬショックの向こう側にも、生き続ける道筋があって、「まだ見えていなかった」景色はいいも悪いもない。ただ、起きる。ただ、対峙するものでしかない。
意味、で事態が起こることがないのだから。
ただ、人の「意識」の内ではこれが逆さになって起こる。
意志の力で・・・とどこか期待をする。
起こることは起こることで、起こった後はなりゆきのうちに最善であればいい。
それ以外は、どこにも・なんにもない。
そういう堂々で生きていけばいい。
大丈夫よ、そういう人には「人生万事塞翁が馬」って言葉を字引で引くことを薦めるわ。
賢くなるチャンスだよ。「これはそういう機会だった」にできた人に、運命の女神は目が行くんだ。