テレビを見てるととても良く分かるのですが、「これまでやって来た事」を大きく変更できないがために、お昼のひな壇バラエティなど、「司会者」と「コメンテーター」が「離ればなれに」なって、「モニター」を介して「これまで」っぽく映してます。
違和感があるのですけど、思ったほど酷くない、程度の違和感です。とはいえ、「これが最善のスタイル」とは言いがたく、直言すれば「これまでっぽい」だけの映像です。ぎこちなさも、慣れればこんなものか、となるかもしれませんが、テレワークなり、遠隔映像のつなぎあわせであるなら、もっと素敵な表現がそのうち生まれて、凌駕するでしょう。
これまでのもの、はこのコロナウイルス以降、一掃されるみたいな空気がありますけど、それって言い過ぎでしょうね。これからのもの、が生まれ出して来ても、これまでのもの、は残って「混在」する世界になるだけだと思います。
コロナ第一波の収束時期と、第二波の合間にある今は、「これまでのもの」の間に合わせで繋ぐでしょうが、これもあんまり寿命があるとは言えない凸凹さがあります。テレビなんかはやっぱり生身の人同士がやり合ってる最中に生まれるものを見せる媒体ですから、どうしてもつまらないのです。
人同士が離れて立ってたり、座ってたりすれば、その「記号の意味」しているものは「仲が悪い」というものです。古来からのこの意味合いはおいそれとは転換も利かないでしょう。モニター越しに「隣り合って」も、仲良しには見えないのです。
そうした「仲良しに見受けられないもの」の中で、きっと人は「仲良しに見えそうなもの」へ嗜好を仕込む業を発明します。それが「これからのもの」です。それまでは、生理的に違和感のあるまま、過ごすか、見ないで済ます方にスライドするんでしょうね。