『ある~日、森の~な~か、熊さ~んに……』ズボンの右ポケットの中で音楽が鳴り響く。俊の携帯の着メロだ。『森の熊さん』なんて、別に俊の趣味ではない。大学の後輩の高見沢香織に携帯を貸したら、いつのまにかこの着メロになっていたのだ。

 電話は香織からであった。こちらは、別の意味で電話番号を暗記している。

「もしもし、シュン?」こちらが「もしもし、俺だけど何の用?」と尋ねる前に威勢の良い声が電話の向こうから聞こえてきた。

「そうだけど。どうした?」

「うん、あのね、シュンにも息抜きが必要かな~と思って。どう、原稿のほうは進んでる?」

「……あのさあ、それさっきも編集担当の奴に言われたんだけど」

「あ、そうなの?ゴメン」

「いいよ、別に。ただ、段々お前もあいつのようになってくンのかなあって、さ」

「冗談言わないでよ」ふふふ、と彼女が笑うのが聞こえてきた。

「いや、マジで思ったんだ」俊もつられて笑った。

 すると、突然何かを思い出したように香織が言った。「あのねあのねっ。今日、隣の部屋に住む田中さんっていうオバサンから聞いたんだけど、なんかうちのマンションの二〇七号室に在住するたき村っていう家の小学二年生の男の子が、昨日から行方不明なんですって。警察にも捜査を頼んでいるらしくて、結構大事なのよ」

 ふうん。俊は相槌を打った。別に、たいして珍事だとは思わなかった。中一のとき、母と喧嘩して家出をし、そのまま三日四日返ってこなかったことがある。小二とは少しわけが違うが、割とよくある事だろうと思ったのだ。

 俊が予想より反応を見せなかったせいであろう、香織はばつが悪くなったのか、押し黙ってしまった。

 気まずい雰囲気を取り正すように、俊はわざと話題を変えた。「この前、~っていう海に行ったんだ。最近、お前の事放っておきにしちゃてるからさ、今度連れてってやろうか?お久のデートということで?」

「うん、行きたい!」彼女は俊の気遣いにホッとしたのか、元気よく答えた。

 電話を切ると、再び携帯をポケットに押し込み、俊は「ようしっ」と気合を入れた。香織とやくそくしてしまったんだ。もう、後には引き下がれない。今から、死ぬ気で原稿に、取り組むぞ!そして、精一杯デートを楽しむんだ!