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生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



令和6年(2024年)12月20日(金)
令和6年もあと僅かで終わる。
思えば令和6年元旦のスタートは石川県能登
半島の大地震、そして羽田空港の旅客機と海
上保安庁機衝突事故から始まり、そして内外
の不穏な事件・事故を見聞きしながら過ぎた
1年だった。

こうした事件事故に巻き込まれて他界した人
、著名人等の死を思考する時に、やはり命と
いう儚さを覚えずにはいられない。死は年齢
に関係なく、健康・不健康に必ずしも左右さ
れずにやって来る。生を強く希求しても命が
終わるのである。

生命の時間を普段考えなくても、自分自身の
みならず愛する者の命も突然に失う。不条理
なことだけれどもそれがこの世の日常だろう
。私は何度も何度も、日記で『命』について
思考して来た。


父を1983年(昭和58年)元旦に亡くし
た。父44歳、私は早生まれなので14歳の
終わり頃、中学3年3学期直前のことだった
。父が他界してから今年で41年目だ。母は
その後に再婚したが、その義父は1994年
(平成6年)6月4日に自ら命を絶った。今
年で30年目だが、当時本人が54歳、母は
55歳、私は26歳であった。

そして、唯一の家族であった母も2023年
(令和5年)2月10日、肺癌等のために満
83歳、数え年だと85歳で他界した。来年
3回忌だが、3万660日の人生、あと21
日で満84歳の誕生日だった。私が55歳に
なる2日前に母が旅立ったのである。満と数
え年は、生まれた年を0歳とするのか、生ま
れた年を1歳とし、元旦が来る度に1歳ずつ
加算するのかで最大2歳もの違いが生じる。
そう考えると、年齢という概念も時間という
概念もそれぞれの決め事で異なる。

犬や猫の年齢も人間と異なる。犬や猫は誕生
日から1箇月で人間の1歳、1年半で人間の
20歳、6年で人間の40歳、16年生きれ
ば人間の80歳に相当する。従って、それぞ
れで命の進行度、時間は違う。この世だけで
通じる時間軸でしかない。人間をはじめ、生
物はいずれにしても必ず死ぬのであり例外は
ない。どんな人生を過ごそうと死ぬのだ。

毎日毎日、路上ですれ違う通行人も駅で電車
を待つ人々も、車内で自分の周りの座席にい
る人や吊り革を握り立っている人も必ず死ぬ
。愛別離苦を体験しない人は存在しない。

従って、この世界はどんな死に方をするにせ
よ、早い遅いの違いはあっても、この世から
消えて行くのである。そう考えると、お互い
にこの世の時間軸で生かされている存在だと
私は気づいたのである。

昨今、福岡県北九州市のマクドナルド322
徳力店の店内にて地元の中学生二人が43歳
の男に刃物で斬りつけられて女子中学生が亡
くなってしまったという事件(下記にネット
記事)、兵庫県神戸市の地下鉄の駅では面識
ない高齢者を刺した通り魔事件、千葉県柏市
では59歳の夫婦が刺されて二人とも亡くな
る事件が連続して発生した。本当に悲しい事
件であり、合掌して御冥福をお祈りする以外
にやりようがない。

(FNNプライムオンラインの記事から)

ネット記事では女性の遺族が写真を提供した
ものであるが、被害者二人は犯行直前までマ
クドナルドで商品を注文しようと列に並ぶ日
常の中の人であった。亡くなった女性は勿論
、共に被害に遭った男子中学生の心情を想う
と言葉が見つからない。本人には全く責任が
ないことだが、恐らく重たいものを背負って
生きていくのだろう。ただただ身体の回復と
平穏な日常、そして高校受験も多分控えてい
ることだと思うので、余計なマスコミ対応が
ストレスにならないことを願うばかりだ。こ
の写真が半ば遺影のようになってしまうのだ
が、私に出来ることはこの写真を拝見する度
に合掌して故人の冥福を願うしかない。

現在まで被疑者の素性や犯行動機は分からな
いが、一般的に人間と人間の関係は当然にそ
れぞれが生きて来た環境や日々影響を受けた
人でも違い、携わった職業やその思考習慣、
住んだ町も違うので他人と感覚が合う合わな
いは間違いなくあるはずだ。しかし、人間の
肉体的最終段階は基本的に火葬をし、リン酸
カルシウムと炭酸カルシウムに分解され亡骸
は墓地・埋葬に関する法律によって埋葬される。要は肉体は地球的物質となる。社会的に
立派な人も凶悪犯も行き着く場所は同じなの
だ。その後は、家族等が要所要所で追善供養
をして故人を弔うのが一般的習わしである。

一方で、私のように身寄りが無い人間は果た
して誰に弔ってもらうのだろうか?他者から
弔ってもらわなければ浄土に行けず、冥土に
迷うのだろうか?

この問題は恐らく、少子化や家族関係が希薄
となった日本で今後益々深刻となるだろう。
しかし、私はそう大して心配していない。そ
れどころか、愛する人を残して他界する心配
がない分、きっとこの世に未練や執着は無い
だろう。例えば死期が近づいたら苦痛から解
放するため医師が行う安楽死、又は過剰な延
命措置をせず、人としての尊厳を保った状態
で死を迎える尊厳死という手段で命を終える
のが最高で贅沢な死に方だと私は思うが日本
では第三者が他者の命を奪うことはどんな事
情があっても認められていない。

安楽死を敢行する場合、必ず第三者が自殺幇
助となる。認められない理由は多分、民族的
な死生観の違いとか倫理的な問題もあるが、
要は性悪説的な保険金殺人だとかの偽装工作
の企みをする人間が外国人に比べて多いこと
が想定されるからだと思う。安楽死を望む者
と家族や医師が時間をかけて話し合って事前
に決めておく手続きが承認国では行われてい
るのだろうが、日本はそもそも『死』を忌嫌
うもので会話にすることすら避けてしまう。
その根底には他者の命に介入したくないと言
う責任回避があるのではないか。

そして、一番信用ならないのが日本人の場合
、人間の心と言うことなのだろう。一方で、
今後は高齢者が増え過ぎて財政が圧迫すれば
、死を望まない人にまで国家の圧力で、文書
化がされない見えない通達によって望まない
安楽死が敢行される可能性は高いだろう。優
生思想の復活が、それくらい厚生労働省や財
務省と言った役人への不信感を持っているの
ではないだろうか。

いずれにしても激しい痛みを伴いながら長患
いするのは避けたい。肉体的にも精神的にも
安らかに命を終えたいと誰もが希求している
のではないかと私は思う。最近、私が高校生
の頃にデビューした中山美穂が亡くなった。
死因はヒートショックとか飲酒による溺死等
と色々言われているが、飲酒による溺死と言
うならば、少なくとも本人の自覚では苦しま
ずに逝けたとも言える。日本人に限らず全世
界の人間の死期というか最期は死苦が伴う。
その覚悟は皆あるのだろうか。私自身、未だ
その覚悟が備わっていない。しかしながら私
は死ねば未練なく真っ直ぐにこの世から離脱
するだろう。

幸い、私自身、合わない人は存在していても
憎い人や恨みに感じる人は存在しない。と言
うか、そこまで他人に執着していないのだろ
う。全ての人から好意を持たれることはない
のであり、出会った人の何%からは嫌われる
のである。

それは、ある意味で他人が感じている関心事
に興味が低いと言うことでもある。従って、
他人を憎んだり恨んだりする人は、他人に関
心が強い人とも言えるし、情も深いとも言え
る。

あと弔いについては誰も私を追善供養しない
ことは不可避だが、これも仏教では大した問
題ではなく、逆修供養と言って今生にて自分
で自分の死後の供養をする逆修供養を行うと
追善供養の7倍もの功徳があるとされている
のだ。従って折に触れて念珠に心を込めて自
身で祈り続けるのである。


念珠を摺る時、先→戻→先は他者への祈り、
戻→先→戻は自身の精進を意味する。多くの
人のように惜しまれて死ぬのもこの世で徳を
積んだ人の証であるが、私の場合は不徳ばか
りか誰の心にも好印象、好影響を与えたり他
者の為に尽くしたことの無い人間であるから
、自分で逆修供養しなければ他者から愛され
たり地道に徳を積んで来た人とはとても対等
になれるはずはなく、死路は冥土に迷うこと
になる。

幸いにして私は従来から神仏に触れて来た。
何故そんな性格なのかを自分で確定するのは
難しいが、いわゆる手相占い(信憑性は解ら
ないが)なるものから紐解けば写真の通り私
の手相には神秘十字線(下記写真)なるもの
が刻まれていると言う。眼に見えない神仏の
力に護られているとされているが、確かに人
生の危機的岐路に陥ってもその後、必ず好転
している。

(私の手相)

四苦八苦は避け難いけれども、何等かの力が
働いていることは感じるのだ。日本には現在
、色々な宗派や新興宗教がある。私の場合は
弘法大師空海が祖師の真言宗だが、真言宗で
も派閥が沢山ある。お経はほぼ同じであり、
派閥同士が一斉に集う会も定期的に行われて
いる。

仏教系は主として南都六宗、平安二宗、禅の
3種に分けられ、真言宗は平安二宗の一つだ
。もう一つが最澄が祖師の天台宗である。空
海と最澄は現実に人間関係があった。そして
、この最澄の天台宗から生まれたのが日蓮宗
と日蓮正宗、浄土宗等である。浄土宗から浄
土真宗が生まれている。

従って、平安二宗(天台・真言)は今の仏教
界の基礎を作ったと言える。弘法大師空海は
真言密教を基本に置き独自路線を貫くが、伝
教大師最澄の入定後、比叡山で、
浄土宗の圓光大師法然
臨済宗の千光祖師栄西(ようさい)
浄土真宗の見真大師親鸞
曹洞宗の承陽大師道元
日蓮宗の立正大師日蓮
が比叡山延暦寺で学んだ。
要は比叡山は仏教の大学とも言える。私は真
言宗であるが、どの宗派と縁を結ぶか分から
ないが全て『命』と『心』を説いているのだ
18日に訪れた日光東照宮は徳川初代将軍徳
川家康公を御祭神におまつりした神社である
。また、東照宮の隣にある日光山輪王寺は平
安時代に弘法大師空海も訪れたお寺であり、
正式には天台密教の流れを汲む天台宗のお寺
である。私は参拝すると必ず購入するのがお
線香である。このお線香には幾つかパターン
があることに気づいた。

私が購入した輪王香は実は比叡山の叡山香、
上野の寛永寺で購入した東叡香と全く同じも
のだった。お線香も天台宗の流れを汲むよう
だ。

因みに我が真言宗豊山派長谷寺の初瀬香と真
言宗智山派川崎大師のやくよけ香(沈香)は
同じものであった。以下、この日撮影した日
光東照宮と輪王寺の写真を添付しておく。









また、最近は孤独や疎外感から事件を起こす
人も多い。敏感社会の影響かこの世で他人に
怨憎会苦を感じる人も沢山いる。それは自分
の居場所が脅かされる危険があるからだろう
。一度の失敗で居場所を失う恐怖は計り知れ
ない。預貯金があれば多少の失敗は気になら
ず、チャレンジする意欲も湧くだろうが、昨
今は自分を優位に置き、居場所や立場を守る
為に他人を貶めたり社会的に抹殺したりする
。その傾向は益々増えるだろう。

私自身もこの社会の渦中で心が乱れることは
度々あるが、所詮は互いに老・病、やがて消
滅する身は同じことである。だとしたら、気
持ちが合わない人とはいつまでも一緒の空間
に居ず、精神的距離を図ることがお互いのた
めではないか。それが出来れば、相手を傷つ
けたり相手の成長を妨害して迷惑を掛けるこ
ともない。それを性善説で歩み寄ったり依存
しようとすればするほど心は悲鳴を上げ逆効
果になる気がする。

心にも分相応というものがあるのではないの
か。グローバリズムによる戦争は互いの国柄
に不要に介入して混乱させている。日本も国
際社会という名目で金銭的にウクライナ戦争
でウクライナに肩入れしているが、世界には
日本の国柄に合わない国家は沢山ある。「話
せばわかる」と頑なに信じ介入することが果
たして双方に正しいのだろうか。結局、国民
の望まない政策を実行してしまう政党や政治
家、官僚は多い。それも一部の既得権益を維
持しては総国民の利益に繋がらず、疲弊する
原因にすらなっている。

昨今の凶悪事件も政治による同胞への仕打ち
も根底には人間不信から成り立っているよう
に思う。多分、政治家や官僚は不平不満の多
い国民よりも笑顔でフランクに接してくれる
外国人の方が大切だと感じているように思う
。こうなると与野党関係なく、組織にとって
大切と思う外国人の権利を優先的に考えた制
度を作ってしまうようになる。だが、これは
人間の感情として仕方ない気もする。嫌だっ
たら選挙でその政党や立候補者に投票しない
ことであるが、僅かでも言葉を交わしたり握
手したりすれば好意を持ってしまうのもやむ
を得ない。

私は思うが、人にはそれぞれ目に見えない
周波数(波長)があるのではないだろうか。
令和6年の私は航空特殊無線技士と第三級ア
マチュア無線技士の免許を取得したが、電波
というのは目に見えない。オシロスコープで
その波を物理的に表示することは可能だがそ
れはその波の強さであり色彩があるわけでは
ない。空気も同じだろう。物理的に煙に着色
させて表現することは可能だが、空気そのも
のに色彩があるのではない。他人にはその人
が辿って来た道があり、心がある。心には慈
、悲、喜、捨の四無量心があり、私と心が合
わなくても間違いなくその人に備わっている
もの。

そしてその人と強く深く共鳴する人も多く存
在する。そこに無理矢理同調しようとすれば
、次第に元々共鳴していた人々を混乱させる
ばかりか、その集団の価値観をも破壊してし
まう。その結果、自分は招かざる人間と化し
更なる孤独と疎外感を覚えてしまうだろう。
私が合わない人であっても、その人は私の知
らない場所で強く深く徳を積み、愛される人
間なのである。それを思えば私がその場所に
留まることはその人に無礼なことなのである
。こうして、昨今は他者と良い距離感を作る
ことが非常に難しくなっている気がする。

インターネットの普及で、過度な情報も入り
不幸の端緒も増えたし、誰でもが何に対して
もSNS等で発信が出来てしまいそれが諸刃
の剣となり他者を深く傷つけてしまう。また
『正義』と言う看板を盾にして面識がない人
間が感情によって口撃する。

一つ一つの事実と真実は異なる。

事実は現実に存在する事柄を意味し、人が関
与しない。一方の真実は嘘偽りがなく本当で
あることを意味し、その事柄に対する解釈が
入るため人が関与する。殺人事件の被疑者が
逮捕されたとして、殺人容疑で逮捕したのは
事実だが、被疑者の供述で「殺すつもりは無
かった」などと言うのは被疑者側の真実にな
る。公判では、事実と真実を加味して加重し
たり酌量減軽して判決を出す。

人間社会と言うのは本当に難しいと思う。だ
からこそ、それぞれの人がなるべく自分に適
した環境を求めて行くしかないと思うのだが
、誰かが居心地良いと言うことは、誰かが居
心地悪いのである。誰かが楽しい時、誰かが
悲しいのである。そこに配慮する必要はある
が、そこばかりに気をもんでしまえば楽しい
人も巻き込んでつまらなくなってしまうのだ

最後にこの世とあの世を結ぶ仏具が念珠であ
る。念珠を摺合せたり、合掌することで一体
となるのである。この念珠のパーツについて
自分自身で改めて覚える為に記載しておきた
い。見本として日常良く使っている一位木の
念珠で記しておく。

(私の一位木の念珠の全景)


念珠の大きい珠を母珠と言い、右側を緒留、
左側の小さな珠(浄明珠)がある方をタラマ
と呼んでいる。緒留は阿弥陀如来、タラマも
阿弥陀如来を表す。手に持つ時はタラマ側を
右手の中指に掛け、緒留を左手の中指又は人
差し指に掛ける。中指は火を興し、人差し指
は風を意味している。中指同士に掛けて煩悩
等を火力で燃やし尽くすか、左手を人差し指
の風で呼び興して燃やすかの違いである。


指し示すのが浄明珠であり、弥勒菩薩を表し
ている。浄明珠の下に配置されている5つ珠
を記子又は弟子珠と呼び、4本の房ごとにあ
るので合計20珠ある。


記子又は弟子珠の下にあるのが記子留と言い
、福徳と智慧、菩提と涅槃を表す。


母珠の間に、母珠よりもひと回り小さな珠が
片側に54珠、左右で108珠ある。これを
子珠(ししゅ)と呼び、108の煩悩又は金
剛界の108尊を表す。また、子珠よりも小
さな珠が4つある。写真の指で示した場所、
母珠から7つ目の次と21個目の次。これを
四子珠又は四天王と呼ぶ。阿弥陀如来の四菩
薩(金剛法、金剛利、金剛因、金剛語)を言
う。四天王の場合は、持国天、増長天、広目
天、多聞天を表す。本式念珠は108珠とさ
れていて、珠を数える時は四天珠の4つは数
えないことになっている。


これは房であり、念珠を持つ人が自由に色を
選んで良い。この形はかがり梵天房と言うも
のだが、他に梵天房、紐房、頭付房がある。

また、珠と珠を結ぶ糸は貫線(かんせん)と
言って、観音菩薩の大悲を表す。

 (つづく)


令和6年(2024年)12月1日(日)
都内から引越して来て1年を超えた。比較的
近くにイトーヨーカドーがあるからと安心し
ていたが、先週閉店してしまった。最終日、
私も買い物に出掛けた。


どうやらこの店舗は人気アニメ漫画のクレヨ
ンしんちゃんで有名なようで、他店とは少し
意味合いが異なりテレビ局が取材に来ていた
















しかし、昨今はイトーヨーカドーをはじめ、
名が知れた店がどんどん閉店してしまってい
る。こうした状況を鑑みると日本は衰退の一
途を辿っているようで残念だと思う。

理由は様々だと思うが、やはり経営者が株主
等と闘えないと言うのも一因だろう。以下は
経済安全保障アナリストの平井宏治氏のポス
トである。






 (つづく)


令和6年11月19日(火)

17日の日曜日、埼玉県幸手市にあるマリア
地蔵に参拝した。詳しくは↓下↓の掲示板に
書いてある通りである。


ただただ、静かに204年前に生きていた人
の想いを感じて祈るだけである。私は真言宗
の在家信徒だが、江戸時代には幕府(徳川家
康)がキリスト教を禁じて弾圧していた為、
カトリック・キリスト教の信仰者は隠れて信
仰を続けていたようだ。


一見して仏教の仏像であるが、そこにはキリ
スト教の仮託礼拝物のヘビ、魚、イエスが刻
まれている。慈母観音像が左手に持つ錫杖は
真言宗や天台宗のシンボルでもあるが、そこ
にはキリスト教のシンボル、十字架が刻まれ
ている。私が実物を見たところ、錫杖に十字
架が刻まれていることをハッキリとは確認出
来なかったが、ゆっくり見れば分かるのかも
知れない。あっ、でも十字架に見えて来た。
子であるキリストを抱いた聖母・マリア像、
しかし、聖母マリアでは江戸時代にあっては
難しく、このように偽装しながらも心の支え
として合掌しながら十字をきっていたのだろ
うと思う。


なるほど、こうして考えると自分の心の拠り
所というのは人間精神に極めて大事なことな
のだとつくづく思った。今、外国人が多く入
国し、政府も移民政策に舵を切った。外国人
には外国人の信仰がある。一つの民族集団が
コミュニティを作り、日本人とは異なる文化
を日本人文化よりも上に置いてしまうとそこ
に分断が生じてしまう。そればかりか、日本
人同士の中で、個別に又は組織的に外国人と
人間関係(縁)が結ばれていれば外国文化や
思想に寛容になるのは自然なことだろう。し
かし、その小さな穴から綻びが生じて来るの
は当然で、日本人も外国人も共に不幸になっ
てしまう。

江戸時代の場合は隠れ切支丹ということで、
日本文化が最優先された結果、このように日
本人の信仰を邪魔することなく、密かに仏像
の中にその想いを刻み信仰していた姿を思い
浮かべる。その後、明治政府によって禁制令
は解かれた。




しかし、今は政治家が優先しているのは日本
人の精神的安寧ではなく、外国文化や思想の
流入である。信仰も金融グローバリズムの中
に組み込まれて行く気がして憂慮せざる得な
い。



(長崎の神の島教会近くの聖マリアの像)