生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~) -27ページ目

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



●平成10年(1998年)8月6日(木)
5日同様、実家に泊まり込み母に処方薬を飲
ませる。母に薬を渡す時、捨てたりしないか
、キチンと飲んだかチェックする。その都度
、母とトラブルになる。

昨日よりは母の体調も良いように感じるが、
それでも「テレビ画面が私の写真を撮影して
いる」と、まだまだ妄想が消えないようであ
る。しかし、洗濯や食事の支度は自分で積極
的にやるようになった。だが、ちょっとした
心の変化で薬を拒否してしまう。処方薬は本
人にしてみれば毒なのである。その毒を唯一
の家族である私が勧めているのだから、母に
したらとんでもない子という認識なのだ。勿
論、親子関係で互いの信頼性が薬を受入れる
か拒否するかの分岐になるだろうが、私に余
裕はない。余裕を持つには教習所を退職し、
家事に専念することである。


夕方、教習所に電話をし月曜日まで欠勤させ
てもらうよう伝える。電話に誰が出るかで私
の気持ちも異なる。幹部だと明らかに声のト
ーンが違うからだ。こんなことで気を遣うく
らいなら退職して家事に専念したい。確かに
収入のこともあるが、私の人生、昔から将来
設計を築ける環境にはない。常に今が大事な
のである。従って、家庭が安定している人と
はそもそも気持ちを共有出来ない。何も知ら
ない他人からしたら、「母親本人も子供じゃ
ないのだから、自分でタクシーを呼んで病院
に行けばいいだろ。お前も親離れして、しっ
かり仕事に集中しろ」と。概ね、それが幹部
の本音だろう。しかし、事情はそう簡単では
ない。

また私は思うが、「苦労した分、他人に優し
くなれる」と言う。だが私の考え方は逆であ
る。私はそんなに人間が出来てないので、や
はり自分が体験したことを基準に思考は組み
立てられると思う。厳しい指導を受けた人は
、厳しい指導をするものだ。

今考えれば、当時、父は母の疾病に直面し、
仕事どころではなかったことだろう。そんな
渦中、私という子供の存在が加わる。そのス
トレスから私を虐待したのもやむ得なかった
と思う。父の立場からしたらそう言うことな
のだ。その意味で、仮に私が妻や子供を持て
ば、父と同じように妻や子供を虐待する可能
性は極めて高い。従って、私は一生、家族を
持たない覚悟だ。否、覚悟しなくても『私』
という人間そのものが人間的に欠陥があるの
で、心配に及ばないだろう。

いずれにしても、来週もこの調子なら必ず母
を入院させないとならない。入院は本人には
一時的に苦痛だろうが、幻聴や妄想は間違い
なく緩和される。また、緩和された後、母は
自分の置かれた状況、現実に直面するだろう
が仕方ない。

親戚や他人に頼るのも憚れるが、私一人で自
宅で母を監視するのは限界だ。そこで色々と
専門書を読んでいたら『家族連合会』という
存在を知った。先程電話した。だが、直接に
現状の解決には至らない。会話の中で各地域
に保健婦さんが居て、その人に相談すること
を勧められた。

保健婦さんに電話すると、「薬を家族が管理
して飲ますことは難しいと医師に伝えて入院
させてもらいましょう」と言われた。そんな
こと分かっている。ベッドは用意されていた
のだから。それでも本人が入院を拒否したか
ら私が管理しているのだ。

今、夜の11時。漸く母は薬が効いて来たの
か眠りについた。睡眠が一番である。もう職
場での信用はどうでもいい。今は母を入院さ
せることが最優先である。

(つづく)


=説明=
令和4年、西暦2022年に入った。叔母が
昨年5月に他界した。三親等であり喪中範囲
ではないが静かに過ごしている。

さて、このブログは私が25、6歳頃から書
き綴った日記(内心の自由と不自由)の転記
です。令和の今と考え方が異なる部分も多々
あります。それが成長なのか後退なのか分か
りません。

アップの目的は、
①自分をみつめること
②『私』が『他者』との関わりの中で感じた『絶望』と『再生』の内観

そして、いずれ訪れる私の死に際し、遺書の
意味も含有します。人の存在は川の流れのよ
うに『過去』に消えます。町ですれ違う人々
、電車やバスで乗り合わせる人も、この瞬間
を起点に100年後は99%が絶命し、その
人の存在があった事すら知る者は血縁者以外
にいません。

私が古い『日記』を開示する目的は、私に関
わってくれた多くの人々も活字の世界で生き
続けて欲しいと願うからです。
『死して朽ちず』
それが供養です。

私自身、マイノリティーな家庭で育ち、父は
酒乱で母に不倫され自殺未遂、そして酒が原
因で入退院を繰返し、結果的に糖尿病から尿
毒症を発症して昭和58年元旦に死去しまし
た。

また、母は遺伝的疾患で長く入退院を繰返し
、その不倫相手のYS氏と再婚しましました
が、平成6年、YS氏は失業の末にうつ病を
発症し自殺してしまいました。しかし、母が
YS氏と再婚しなければ私は100%中卒に
なっていました。何の才能がある訳ではなく
、職種は極めて限定的だったことでしょう。

私達家族は社会的に隠す事が多く、世間体を
気にし、生きづらさを覚え劣等感を抱えて生
きておりました。従って挫折癖があるのです
。私は地に足がついてないので、自分の身近
な人を愛さず(愛せず)に、いきなり世界平
和を願ってしまうような、心の基礎が脆弱で
外面を取り繕う人間に成り下がりました。

また、私のような人間は他人に対する優しさ
に欠け、そして薄情です。何故ならば、心は
常に劣等感の解決に拘泥し、自分のことで精
一杯だからです。今、政治家や実業家の二世
三世に厳しい眼が向けられています。しかし
、彼らがこの社会で重宝されているのも事実
で、その理由の1つに他者と比べて人脈、フ
ランクなコミュニケーション能力が自然と身
に付くからだと私は思います。それは、二世
三世の親の周りに様々な職業の人間が出入り
し、処世術や社会との関わり合い方を学習す
ることが可能だからだと思うのです。

一方、私の両親の場合は自己を守ることで精
一杯、人や社会との関わり合いは限られた範
囲内でした。父も母もYS氏も、それぞれが
この社会で自分の居場所を求めて懸命に生き
ていたと思います。

同時に、孤独な母の話し相手をしてくれてい
たのが母の姉(私にとっては叔母)でした。
10年前から胃癌で伊勢原市の大学病院に通
院、手術を繰返していましたが、令和3年5
月10日、86歳で永眠しました。叔母は若
い頃に離婚し、以後、独りで力強く懸命に生
きていました。叔母から泣き言を聞いたこと
はありません、常に前向きな言葉しか記憶に
ありませんでした。見事な最期だったと思い
ます。

母は7人兄弟姉妹の4女で、母を含めて血縁
者に精神疾患者がおります。叔母も自分の兄
や妹がこうした病を抱え、そのことで劣等感
や不遇を感じていたことでしょう。しかし、
叔母は母に優しく接してくれました。私はそ
れを深読みし、返って迷惑なのではないかと
考え、敢えて親戚から遠ざかって行きました

更には、従姉妹(いとこ)の子供が警察官で
あり、尚更、遠縁である母や私の存在は伏せ
るべきことだと思いました。それは今も変わ
らない想いです。

父方の親戚についても同じです。父には姉と
弟がいますが、伯母には幼少の頃に数回会っ
たきりです。伯父には生前父がかなり迷惑を
掛けたので、父が亡くなった後は交流があり
ません。やはり親戚付合いも、家庭が安定し
てないと互いに難しいものなのです。そのこ
とで私は住居や就職も身寄りがないので、緊
急連絡先にしても連帯保証人にしても難儀し
、年齢と共にキチンとした就職先は得られに
くくなります。最早、会社組織に入っての仕
事は難しく、自分で活路を開くしかありませ
ん。まだまだ、我が国では家族(血縁)が重
視されます。

また、私は遅疑逡巡の癖があり、世渡り下手
で処世術が皆無です。従って、年齢相応のキ
ャリア形成(地位や肩書)はありません。

20代半ばから30代過ぎまで自動車教習所
指導員、30代終わりから40代は警察業務
の民間委託の仕事を10年間勤め、そのうち
約9年間を所属長の立場で部下を持ちました
。慢性的な人手不足の中、目先の運営と実績
に明け暮れ、嫌われることを恐れて叱れない
上司に終始した結果、私の意志を継ぐ後継者
の育成に失敗し、組織の統率・意思決定に不
備が生じました。

『いい人』と呼ばれても人徳がなかったのは
、その場しのぎの偽善を相手が敏感に感じ取
ったからでしょう。私は人間関係の摩擦を回
避したかったのです。上記で触れましたが、
私の幼少期、父は母を巡る不倫でYS氏との
間で激しく罵り合う場面を間近で見ました。
私は人との摩擦を極端に嫌い、リーダーとし
て問題解決能力を養うことをしませんでした
。これは致命的です。

部下を厳しく叱責すべきケースでも柔和に対
処、しかし、腹の中は怒りが渦巻いているの
です。こうして、部下に対する本当の優しさ
が無なかったのです。外面では心にもない美
辞麗句を吐き、同時に私の風貌も相俟ってそ
の言葉が形式的で軽く安っぽく見え、当然、
ストレスはMAX状態です。今、皮肉にも教
習所時代に接した幹部の威厳や風格、貫禄を
10数年後に自分が部下を持つ立場になり痛
感することになりました。

ある年度末、署内で某交通課長(警視)から
「いくら勤務員が努力したと言っても、実績
(数字)として表れなければ管理者としては
失格なんだよ」という主旨の言葉をもらいま
した。要するに、上司として部下に迎合する
ことなく、権限を適切に使いキチンと指導し
なさいという意味に解釈しました。

心理学者の河合隼雄氏の著書の中で「100
%正しい忠告はまず役に立たない」と書いて
あります。仮に私の指導が全員の部下に正し
く当てはまらなくても、それは仕方ないのだ
と割り切るのが正解ですが、当時は全員に賛
成されないと物事が進まないと思っていまし
た。

優しさとは覚悟です。

①部下に恥をかかせ恨みを買われたくない
②自分の指導で人間関係を悪くしたくない
③リーダーとして孤立しない為に部下に迎合

私はこうした組織の縦軸の関係を蔑ろにて依
存体質の部下を醸成してしまいました。私の
前では自由闊達に物事が言えた部下が、人事
異動先で周りに適応出来ず非違事案、交通事
故を起こしたり、体調を崩して亡くなった隊
員もいます。厳しい世界を生き抜ける指導を
しなかった私の責任は重大です。その罪も心
の中で一生負わねばなりません。組織のリー
ダーがやるべきは、人を遺すことです。

更に、私と出会ったことで元々優しい隊員が
質(タチ)の悪い性格に変わってしまうこと
がありました。私との相性もありますが、色
々原因を考えると、その隊員も劣等感から職
場で建前の自分を演じていたのだと思います
。『いい人役』を上司の私に取られたら、自
分の居場所が集団内で影薄くなって脅かされ
ると焦る気持ちがあったのではないでしょう
か。

また、自分に自信のない人、劣等感の強い人
の周りにも質(タチ)の悪い人が集まります
。それは、依存して楽をしようと企む力が働
くからです。同時に私は、私に協力的な人に
も、或いは批判的で質の悪い人にも同じよう
に物分かりの良い上司として演じ続けました
。当時はそれが私に求められること、私がリ
ーダーとして組織で存在する唯一の価値だと
考えていたからです。しかしそれは、私と部
下との心理的距離感が近過ぎて指揮命令系統
は下克上となり、私の決断力が鈍りました。
リーダーが組織を動かす時、それは致命的に
なります。

『本当の優しさ』とは何か?
リーダーとなったなら嫌われてでも、自分の
信念を貫き続ける力が必要です。10人いて
10人から好かれるのは不可能です。これで
は常に他人の感情に揺れてしまいます。そも
そもこの10人それぞれが別人格で、組織や
上司に求めることも違います。一見同じ主張
をしても、両人が同時に納得するとは限りま
せん。昔流行った刑事ドラマのリーダーのよ
うに、力強く部下を統率し全員から慕われる
存在は現実には不可能。人間にはそれぞれ思
惑があったり、達成したいことが異なります

人間関係に消耗しながら妥協する『いい人』
は一時的には重宝されても、概ね自他を不幸
にします。誰かの好都合は誰かの不都合です
が、私が失敗したのは、その都合を合わせる
相手を間違えたことです。リーダーには孤独
と覚悟が必要です。私には覚悟がありません
でした。勿論、その覚悟あるリーダーを本部
がフラフラせずに、信じきることも必要です
。多少の批判や苦情で交代では、いつまでも
組織は弱いままです。その土台なくてリーダ
ーの覚悟も生まれません。しかし、本部もリ
ーダーにそこまで求めていなかったのでしょ
う。本部にもまた問題解決能力が欠けていた
と私は思います。即戦力を求める組織は、互
いの関係が常に緊張状態になりやすく、それ
ぞれの立場で護り(保身)の感情を敏感にし
ます。では、どうすれば骨のある本当に優し
いリーダーになれるでしょうか?

私は、家庭基盤(家族構成と収入)が安定し
、幼少期から自分の『心の基地』を確立した
人物が信念を貫けるリーダーだろうと思いま
す。しかし、そうでない人も『心の基地』を
保持出来れば他人の評価を一喜一憂せずに正
しい方向に組織を導けるのではないでしょう
か?

結果的に私は、親の介護問題と並行して、私
自身が体調を崩して入院、退職の途を歩むこ
とになりました。遡行(そこう)すると私の
人生は、下っ端の頃もリーダーとなった時も
、組織内ではなかなか芽を出せませんでした
。それは詰まるところ、嫌われたくない、好
かれたい、という意識が強く、誰かの支えに
なるリーダーというよりも私自身が誰かの支
え・庇護を常に必要としていました。部下か
ら嫌われたら、その組織で生きて行けないと
思っていました。しかし、本当は逆だったの
です。

総てを守ろうとするものは、総てを失うと言
われています。

どんな地位や肩書きが仮にあったとしても心
のバランスは得られないでしょう。人は与え
られた命の時間、限られた人間関係、そして
、縁あって携わった仕事から「どう思考・行
動したか?」しかないと思います。何の人脈
、人徳、人望もなく、他人に施しを与えられ
る人間ではないですが、精々、こうして過去
に推敲を重ねた日記を遺すことしかありませ
ん。成功者のブログではないですが、小生を
反面教師、他山の石として頂き、皆様の役に
立てれば何より幸甚と思います。

ー令和4年1月ー
 ∠(`・ω・´)


平成10年8月4日(火)
本来、法定講習2日目であったが、それどこ
ろではない。朝、講習に行けない旨を教習所
に電話連絡した。恐らく教習所幹部は「また
アイツか・・・、やる気が感じられない」と
思っているだろう。

確かに母の病名を告げて状態を詳細に述べて
いれば心ある幹部なら理解してくれるかも知
れないが、それは母の名誉にも繋がる話しで
ある。従って私が全て被るしかない。

母も「今日、病院に再度行く」と昨夜言って
いたので私もそのつもりで講習を休む決断を
したが、やはり母は私に入院させられると察
知し、一度は自宅を出たが途中で気が変わり
、「やっぱり病院に行かない」と言い出して
自宅に引き返してしまった。

せっかく講習を休んで説得したのに私の努力
は水の泡となった。近所の人も私と母との喧
嘩を聴いて心配している。最早、ありがちな
団地に住む面倒な一家である。基本的に団地
に住む住民は様々な環境の人が多いが、その
中でも顕著だろう。


いずれにしても、母は病院に行くつもりはな
い。一方、私も講習を休んで対応している。
このまま自宅に帰る訳にはいかない。私は一
人で主治医に相談に向かった。主治医は「も
う入院しかないね。ベッド空けておくから、
とにかく連れて来て」と言う。これで入院の
段取りは出来たが、一度説得に失敗している
だけに心配な気持ちになった。

私はダメもとで精神保健及び精神障害者福祉
に関する法律に基づいて母を保護して病院に
連れて行ってもらおうとA署A駅西口PBま
でタクシーで行き警察官に相談したが、民事
上の問題には動けないと言う。そんなこと知
っているが、何とも使えない警察官だと思い
ながら団地に戻る。

結局、近所の人の協力で何とかタクシーに母
を乗せて病院に向かうことが出来た。母も入
院して治療すれば辛い妄想も治まるだろうし
、私は「これで楽になる」と思ったが、そう
簡単ではなかった。

主治医は母に入院を説得するが、母が強情に
入院を拒否するものだから再度注射をして、
私に処方薬の管理をするように指示した。要
は私に母がキチンと薬を飲んだかその都度確
認しろと言う訳だ。内心「おいおい、これで
は実家に泊まり込むことになる。暫く教習所
を休むことになるじゃないか」と絶望的に感
じながら、昨日捨ててしまった薬と同じもの
を再度一週間分貰い団地に帰って来た。多分
、近所の人も母が入院するものだと思ってホ
ッとしていただろうに・・・。

さて困った。教習所幹部に何と言って退職す
るか考えねばならない。多分、私が職場環境
に文句があって退職したいと考えていると幹
部は思っているだろう。そうであれば、逆に
辞めさせないで私をダメ職員としてスケープ
ゴートの役割に使われる可能性がある。もう
何度も欠勤の電話をしたくない。

いずれにしても一週間分の母の薬を私が管理
するのだから、取り敢えず教習所を一週間休
む電話をしなければ・・・。

へんな話しだが、実家に居ながらここは警察
署の留置場だ。私は看守である。しかしなが
ら、幻聴や妄想に苦しんでいるのは母である
。正常な人には分からないが、そうした怖い
体験を現実に母は今感じているのである。だ
が、その怖い体験を軽減する薬も自分を苦し
めるものと頑なに判断しているのだから仕方
ない。

一番堪えたのは近所の人の言葉だ。

「○○さんが来るのを団地のみんなは怖がっ
ているんだよ。みんな鍵を閉めて、チェーン
まで掛けているんだよ。引越して欲しいよ」

些か、私ら親子が犯罪者家族のような気持ち
に陥った。恥の上塗りだ。この発言をした人
は先程協力してタクシーに母を乗せてくれた
人だが、その有り難さも減少した。宗教団体
にも加入して信仰も熱心なお婆さんだが、そ
んな人でも、母の奇異な行動に我慢出来ない
だろう。医学的知識などもないだろうし、母
の行動は宗教的な意味づけをされて、返って
混乱する。私はこの信仰者の言葉に傷つき、
いたたまれない気持ちになった。やはり、信
仰していても現実の社会の中、地域社会の中
で生きている以上、優しさだけで生活出来な
いのだ。その意味でこの人の発言に憎しみは
感じないが、私は究極的に宗教は全てを解決
出来ないと思っている。

精神疾患に関する本の中に「全国精神障害者
団体連合会」という組織があることを知った
。母もそこに加入させて、同じ病に苦しむ人
同士で交流出来れば多少はラクになるのでは
ないかと思うが、今は入院が先である。しか
し、一週間後、どうなっているのだろうか。
もう教習所はスッキリと退職しよう。母の治
療に専念したい。

(つづく)



平成10年8月3日(月)
今日は教習所指導員として毎年一度、連続2
日間実施される教習所協会での指導員講習初
日だ。本来は母に付いて入院を勧めねばなら
ないが、この講習日程は元々決められていた
ことであり、単に教習所を欠勤する以上に多
くの指導員に迷惑を掛けてしまう。母がおか
しなことをしでかそうが行かねばならなかっ
た。

この講習は県内の教習所指導員が一人一人受
講日を割り当てられ、体験発表や指導員とし
ての向上を目的に法令に従って受講する義務
があるのだ。教習所協会まで片道1時間40
分はかかる。それが終わり自宅に戻り母に電
話するが20回電話しても出ない。

7月31日に病院に行ったので若干安心して
いたが、どうやらダメなようだ。直ぐに実家
に向かう。

実家の部屋は電気が消え真っ暗だ。扉を何度
も叩きようやく扉が開いた。既に近所の人々
が集まっている。生きていることに安堵した
が、近所の人の話によれば、ここ数日、意味
不明な行動と言動を繰り返していると言う。
やはり私の知らないところで近所の人々に迷
惑を掛けていた。

入院しか手段はないのだが、本人が頑なに嫌
がっているのに入院は難しい。一つあるとし
たら、私が母に刺されて医療保護入院にする
しかないということだ。だが、そうなると間
違いなく引越しと私の職場にも迷惑を掛ける

近所の家に勝手に上がり込み押入れを開けた
り、ヤクザに狙われているとか発言したり、
昔、胎児を中絶した罰があって自分を苦しめ
ているとか、他人のポストに35万円入りの
封筒を手紙(貼付写真参照)を添えて投函し
たり、いよいよ近所に母の妄想、病状が知れ
渡ることになってしまった。これで私への責
任は公(おおやけ)になり逃げることは出来
なくなった。


(当時、母が実際に書いたもの)

団地の噂は一気に広がり、奇異な家族として
認知されることになる。窓は締め切り、エア
コンを止めた室内の母は油汗が滴り落ち、脱
水状態である。父は死に、YS氏は自殺し、
兄弟もいない私が一人で精神疾患の母を介助
するのは限界である。そんな中、駆けつけた
近所の人が私に向けて言う。

「あんた子供なんだからもっと責任持てよ。
あんたが面倒見ないで誰が面倒見るんだよ。
仕事もあるだろうけど、近所に迷惑掛けてい
るんだよ。一緒に住んであげなよ」

と強い口調で言われた。私は心の中で「俺は
精神科の医者じゃない。家族でもこの症状の
母と24時間一緒にいられるか」と叫んでい
た。これにより、近所に協力を求めることは
不可能になった。

近所の人は次第に帰り、二人になった。明日
は指導員講習の2日目であり、休む訳にはい
かない。しかし、このまま母を自宅に残して
おく訳にもいかない。頼る人間もいない。正
直、母の首を絞めて私も電車に飛び込んで死
のうと思った。

いずれにしても脱水もあるだろうから救急車
を呼んだ。うまく救急隊員に説得してもらい
入院してもらう算段があったが、母は「私は
病院に行きません」の一点張りで動こうとし
ない。31日に貰った薬もベランダの窓から
捨てていた。問い詰めると、「あの薬は毒だ
から飲んじゃいけないんだよ、何度言ったら
お前は分かるんだ」と言われ、逆に責められ
てしまう。妄想を和らげる薬を拒否するのだ
から、私の努力はもうない。救急隊員もやり
ようなく帰隊した。

入院も服薬も拒否する母に私が出来ることは
、そうした妄想を永遠に起こらないようにし
てあげることだ。母はずっと妄想の中にいる

母は「私の体中に電気が走って狙っている。
電子ロックが入って、それが取れない。気持
ち悪くて仕方ない」と言う。私自身も気がお
かしくなって来る。母の幻覚と妄想と一夜を
過ごす。結局、私は実家で一睡もしなかった
。何度も母の首を絞める決意をするが、いみ
じくも警察官を目指した人間が命を奪うこと
は一番忌避すべきことだと思い、深呼吸して
気を取り戻す。その繰り返してで夜が明けた
。最早、法定講習どころではない。4日朝、
講習を欠勤する電話を行う。もし、教習所幹
部がああだこうだ言ったら、その場で退職さ
せてもらうつもりだった。

(つづく)

=説明=
令和4年、西暦2022年に入った。叔母が
昨年5月に他界した。三親等であり喪中範囲
ではないが静かに過ごしている。

さて、このブログは私が25、6歳頃から書
き綴った日記(内心の自由と不自由)の転記
です。令和の今と考え方が異なる部分も多々
あります。それが成長なのか後退なのか分か
りません。

アップの目的は、
①自分をみつめること
②『私』が『他者』との関わりの中で感じた『絶望』と『再生』の内観

そして、いずれ訪れる私の死に際し、遺書の
意味も含有します。人の存在は川の流れのよ
うに『過去』に消えます。町ですれ違う人々
、電車やバスで乗り合わせる人も、この瞬間
を起点に100年後は99%が絶命し、その
人の存在があった事すら知る者は血縁者以外
にいません。

私が古い『日記』を開示する目的は、私に関
わってくれた多くの人々も活字の世界で生き
続けて欲しいと願うからです。
『死して朽ちず』
それが供養です。

私自身、マイノリティーな家庭で育ち、父は
酒乱で母に不倫され自殺未遂、そして酒が原
因で入退院を繰返し、結果的に糖尿病から尿
毒症を発症して昭和58年元旦に死去しまし
た。

また、母は遺伝的疾患で長く入退院を繰返し
、その不倫相手のYS氏と再婚しましました
が、平成6年、YS氏は失業の末にうつ病を
発症し自殺してしまいました。しかし、母が
YS氏と再婚しなければ私は100%中卒に
なっていました。何の才能がある訳ではなく
、職種は極めて限定的だったことでしょう。

私達家族は社会的に隠す事が多く、世間体を
気にし、生きづらさを覚え劣等感を抱えて生
きておりました。従って挫折癖があるのです
。私は地に足がついてないので、自分の身近
な人を愛さず(愛せず)に、いきなり世界平
和を願ってしまうような、心の基礎が脆弱で
外面を取り繕う人間に成り下がりました。

また、私のような人間は他人に対する優しさ
に欠け、そして薄情です。何故ならば、心は
常に劣等感の解決に拘泥し、自分のことで精
一杯だからです。今、政治家や実業家の二世
三世に厳しい眼が向けられています。しかし
、彼らがこの社会で重宝されるのも事実で、
その理由の1つに他者と比べて人脈、フラン
クなコミュニケーション能力が自然と身に付
くからだと私は思います。それは、二世三世
の親の周りに様々な職業の人間が出入りし、
処世術や社会との関わり合い方を学習するか
らだと思うのです。

一方、私の両親の場合は自己を守ることで精
一杯、人や社会との関わり合いは限られた範
囲内でした。父も母もYS氏も、それぞれが
この社会で自分の居場所を求めて懸命に生き
ていたと思います。

同時に、孤独な母の話し相手をしてくれてい
たのが母の姉(私にとっては叔母)でした。
10年前から胃癌で伊勢原市の大学病院に通
院、手術を繰返していましたが、令和3年5
月10日、86歳で永眠しました。叔母は若
い頃に離婚し、以後、独りで力強く懸命に生
きていました。叔母から泣き言を聞いたこと
はありません、常に前向きな言葉しか記憶に
ありませんでした。見事な最期だったと思い
ます。

母は7人兄弟姉妹の4女で、母を含めて血縁
者に精神疾患者がおります。叔母も自分の兄
や妹がこうした病を抱え、そのことで劣等感
や不遇を感じていたことでしょう。しかし、
叔母は母に優しく接してくれました。私はそ
れを深読みし、返って迷惑なのではないかと
考え、敢えて親戚から遠ざかって行きました

更には、従姉妹(いとこ)の子供が警察官で
あり、尚更、遠縁である母や私の存在は伏せ
るべきことだと思いました。それは今も変わ
らない想いです。

父方の親戚についても同じです。父には姉と
弟がいますが、伯母には幼少の頃に数回会っ
たきりです。伯父には生前父がかなり迷惑を
掛けたので、父が亡くなった後は交流があり
ません。やはり親戚付合いも、家庭が安定し
てないと互いに難しいものなのです。そのこ
とで私は住居や就職も身寄りがないので、緊
急連絡先にしても連帯保証人にしても難儀し
、年齢と共にキチンとした就職先は得られに
くくなります。最早、会社組織に入っての仕
事は難しく、自分で活路を開くしかありませ
ん。まだまだ、我が国では家族(血縁)が重
視されます。

また私は遅疑逡巡の癖があり、世渡り下手で
処世術が皆無です。従って、年齢相応のキャ
リア形成(地位や肩書)はありません。20
代半ばから30代過ぎまで自動車教習所指導
員、30代終わりから40代は警察業務の民
間委託の仕事を10年間勤め、そのうち約9
年間を所属長の立場で部下を持ちました。慢
性的な人手不足の中、目先の運営と実績に明
け暮れ、嫌われることを恐れて叱れない上司
に終始した結果、私の意志を継ぐ後継者の育
成に失敗し、組織の統率・意思決定に不備が
生じました。

『いい人』と呼ばれても人徳がなかったのは
、その場しのぎの偽善を相手が敏感に感じ取
ったからでしょう。私は人間関係の摩擦を回
避したかったのです。上記で触れましたが、
私の幼少期、父は母を巡る不倫でYS氏との
間で激しく罵り合う場面を間近で見ました。
私は人との摩擦を極端に嫌い、リーダーとし
て問題解決能力を養うことをしませんでした
。これは致命的です。

部下を厳しく叱責すべきケースでも柔和に対
処、しかし、腹の中は怒りが渦巻いているの
です。こうして、部下に対する本当の優しさ
が無なかったのです。外面では心にもない美
辞麗句を吐き、同時に私の風貌も相俟ってそ
の言葉が形式的で軽く安っぽく見え、当然、
ストレスはMAX状態です。

今、皮肉にも教習所時代に接した幹部の威厳
や風格、貫禄を10数年後に自分が部下を持
つ立場になり痛感することになりました。

ある年度末、署内で某交通課長(警視)から
「いくら勤務員が努力したと言っても、実績
(数字)として表れなければ管理者としては
失格なんだよ」という主旨の言葉をもらいま
した。要するに、上司として部下に迎合する
ことなく、権限を適切に使いキチンと指導し
なさいという意味に解釈しました。

心理学者の河合隼雄氏の著書の中で、「10
0%正しい忠告はまず役に立たない」と書い
てあります。仮に私の指導が全員の部下に正
しく当てはまらなくても、それは仕方ないの
だと割り切るのが正解ですが、当時は全員に
賛成されないと物事が進まないと思っていま
した。

優しさとは覚悟です。

①部下に恥をかかせ恨みを買われたくない
②自分の指導で人間関係を悪くしたくない
③リーダーとして孤立しない為に部下に迎合

私はこうした組織の縦軸の関係を蔑ろにて依
存体質の部下を醸成してしまいました。私の
前では自由闊達に物事が言えた部下が、人事
異動先で周りに適応出来ず非違事案、交通事
故を起こしたり、体調を崩して亡くなった隊
員もいます。厳しい世界を生き抜ける指導を
しなかった私の責任は重大です。その罪も心
の中で一生負わねばなりません。組織のリー
ダーがやるべきは、人を遺すことです。

更に、私と出会ったことで元々優しい隊員が
質(タチ)の悪い性格に変わってしまうこと
がありました。私との相性もありますが、色
々原因を考えると、その隊員も劣等感から建
前の自分を演じていたと思います。『いい人
役』を上司の私に取られたら、自分の居場所
が集団内で影薄くなって脅かされると焦る気
持ちがあったのではないでしょうか。

また、自分に自信のない人、劣等感の強い人
の周りにも質(タチ)の悪い人が集まります
。それは、依存して楽をしようと企む力が働
くからです。同時に私は、私に協力的な人に
も、或いは批判的で質の悪い人にも同じよう
に物分かりの良い上司として演じ続けました
。当時はそれが私に求められること、私がリ
ーダーとして組織で存在する唯一の価値だと
考えていたからです。しかしそれは、私と部
下との心理的距離感が近過ぎて指揮命令系統
は下克上となり、私の決断力が鈍りました。
リーダーが組織を動かす時、それは致命的に
なります。

『本当の優しさ』とは何か?

リーダーとなったなら嫌われてでも、自分の
信念を貫き続ける力が必要です。10人いて
10人から好かれるのは不可能です。これで
は常に他人の感情に揺れてしまいます。そも
そもこの10人それぞれが別人格で、組織や
上司に求めることも違います。一見同じ主張
をしても、両人が同時に納得するとは限りま
せん。昔流行った刑事ドラマのリーダーのよ
うに、力強く部下を統率し全員から慕われる
存在は現実には不可能。人間にはそれぞれ思
惑があったり、達成したいことが異なります

人間関係に消耗しながら妥協する『いい人』
は一時的には重宝されても、概ね自他を不幸
にします。誰かの好都合は誰かの不都合です
が、私が失敗したのは、その都合を合わせる
相手を間違えたことです。リーダーには孤独
と覚悟が必要です。私には覚悟がありません
でした。勿論、その覚悟あるリーダーを本部
がフラフラせずに、信じきることも必要です
。多少の批判や苦情で交代では、いつまでも
組織は弱いままです。その土台なくてリーダ
ーの覚悟も生まれません。しかし、本部もリ
ーダーにそこまで求めていなかったのでしょ
う。本部にもまた問題解決能力が欠けていた
と私は思います。即戦力を求める組織は、互
いの関係が常に緊張状態になりやすく、それ
ぞれの立場で護り(保身)の感情を敏感にし
ます。では、どうすれば骨のある本当に優し
いリーダーになれるでしょうか?

私は、家庭基盤(家族構成と収入)が安定し
、幼少期から自分の『心の基地』を確立した
人物が信念を貫けるリーダーだろうと思いま
す。しかし、そうでない人も『心の基地』を
保持出来れば他人の評価を一喜一憂せずに正
しい方向に組織を導けるのではないでしょう
か?

 結果的に私は、親の介護問題と並行して、
私自身が体調を崩して入院、退職の途を歩む
ことになりました。遡行(そこう)すると私
の人生は、下っ端の頃もリーダーとなった時
も、組織内ではなかなか芽を出せませんでし
た。それは詰まるところ、嫌われたくない、
好かれたい、という意識が強く、誰かの支え
になるリーダーというよりも私自身が誰かの
支え・庇護を常に必要としていました。部下
から嫌われたら、その組織で生きて行けない
と思っていました。しかし、本当は逆だった
のです。総てを守ろうとするものは、総てを
失うと言われています。

どんな地位や肩書きが仮にあったとしても心
のバランスは得られないでしょう。人は与え
られた命の時間、限られた人間関係、そして
、縁あって携わった仕事から「どう思考・行
動したか?」しかないと思います。何の人脈
、人徳、人望もなく、他人に施しを与えられ
る人間ではないですが、精々、こうして過去
に推敲を重ねた日記を遺すことしかありませ
ん。成功者のブログではないですが、小生を
反面教師、他山の石として頂き、皆様の役に
立てれば何より幸甚と思います。

ー令和4年1月ー
 ∠(`・ω・´)