生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~) -16ページ目

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



令和5年2月12日(日)
先ずは、このブログを読んで頂いた皆様、篤
いお言葉を投げて頂いた皆様に心から感謝申
し上げます。10日の午前10時20分に長
期間入院していた病院内にて逝去致しました
。数え年で84歳(3万661日、83年と
345日 初日含む 昭和14年3月3日―
令和5年2月10日)の人生ということで、
令和3年の日本人女性の平均寿命、87歳に
は届かずも、人生の大半を入院生活していた
身としたら、まぁ、頑張って生きたと思う。
しかし、母にしか分からないが、その命の時
間は決して楽しく、歓喜に満ちたものではな
かったと思う。

昨日は、午後から安置施設に赴き、納棺をし
て来た。家族は当然私だけ。本来ならば通夜
、葬儀という形にするのが供養だと思うが、
このご時世と費用の面、参列者も限定される
中、一般的な葬式は馴染まない。母自身、引
っ込み思案で更に入院生活だった為に友人も
いない。不本意ではあるが火葬式という形に
した。しかし、母の姉(故人)の長女(私の
従姉)が明日の火葬に来てくれるというので
、骨上げは血縁者で出来る。きっと母も喜ぶ
だろう。

病院では合掌されていた両手が納棺時には、
そのまま真っ直ぐに垂れていた。納棺師が言
うには、長期間の点滴で全身が浮腫、合掌し
た両手の上からドライアイスを乗せると云々
カンヌンと言うのだが、よく理解出来ずに私
は聞き流した。掌を合わせることで極楽浄土
ヘ行けるとだろうという何となくの気持ちか
ら通常は合掌したスタイルで棺に入っている
。だが、今日、ネットで検索すると最近は遺
体の腹部の腐敗を防止する為、合掌させずに
直接腹部にドライアイスを乗せる方法を取る
と書いてある。納棺師の「少しでも腐敗を抑
えてキレイな状態で」という極めて有り難い
配慮ということがわかった。しかも通常通り
にドライアイスを置くと、更に浮腫が増すと
書いてある。母の場合、ただでさえ浮腫が酷
い。私の手帳には、
9月11日の日曜日に、窓越しに面会、若干
弱々しい感じ。
同23日の金曜日は若干妄想あり。

10月15日に母はインフルのワクチンを接
種。
同25日には浮腫が大、手の皮膚炎が顕著。
同28日には病院から電話あり、食事と薬を
拒否、栄養点滴静注、熱が38℃あり
同31日、院長(精神科)から電話、熱が高
い、37.4、食事出来ないので栄養点滴、
精神的には落ち着いている、命がどうのとい
うことはない

11月4日、院長と電話、コロナ以外の感染
症の疑い、心臓がかなり弱っている、食事も
殆ど食べない、点滴で様子見、手が浮腫だか
ら別の場所から入れている、濃い目の利尿薬
を使う
同9日の水曜日、母に面会。点滴は一日2回
である。多少、浮腫が引いた感じがする。手
は浮腫酷い。氷川きよしの母を聴かせるが、
意識が朦朧でわからない様子だが、会話なん
とか可能
同13日の日曜日、面会。キチンとした会話
にはならないが、母の笑い声が力強い、多少
元気になった様子

同17日の木曜日、院長と電話。現在、点滴
で栄養補給、点滴だけで1800カロリー、
皮膚の炎症と浮腫は極度のタンパク質不足、
その浮腫を抑える為に10月か1日当たり6
リットルのアルブミン製剤と血を濃くする為
に輸血も併用。50〜60%肺がんの可能性
、仮に肺がんだったとしてもその部位が心臓
の近くに位置していて、大きさが3センチ✕
3センチで手術が困難。肺がんの確定をする
にも細胞を接取する為に気管に太い管を入れ
ないとならないが、かなり本人にはツラく、
苦しいと思う。痰を出して細胞を検査する方
法も試みるが、沢山必要なので期待は出来な
い。がんの確定まで行かないので抗がん剤の
使用も出来ない。その都度、対処療法でやる
ことになる。面会は出来る状態にしておく。
今すぐ命がどうのというところまではない。

同20日の日曜日に面会、母の笑い声が有り
、キチンとした言葉が聞き取れないが、何か
口を動かして私に問いかけている。少し呼吸
が浅い感じがする
同23日の水曜日に面会、今日は病室ではな
く、一般面会室で。車椅子に乗って。少し元
気になった感じ。病棟の人とも楽しく会話す
ることもあるとスタッフから。
同27日の日曜日に面会、やはりベッドでの
面会。浮腫がほんの少し改善した感じがする
。経鼻経管栄養の点滴、精神科の薬を拒否で
精神の電気療法のサインに署名。

12月4日の日曜日に面会、一般面会室で。
若干呼吸が荒い感じ。何とか会話が出来る状
態だが、声にならない。
同11日の日曜日に面会、少し元気になった
気がする。私が来たことで涙を流していた。
やはり体力が衰えて声にならない
同16日の金曜日に行くが、院内クラスター
で患者の大移動の為に面会が出来ず
同22日の木曜日に面会、その前に院長から
年内もたない、と言われる。母、ベッドで弱
々しい、私が来て涙を流がす
同23日の金曜日に面会、昨日同様に何とか
意思疎通が可能、私が唄った氷川きよしの母
をイヤホンで聴かせ、涙を流していた
同24日土曜日に電話確認、昨日と変わらず
同25日の日曜日に面会、終始寝ていた。モ
ニターは正常範囲
同26日の月曜日、病院から電話。母がコロ
ナの陽性反応、熱が38℃、コロナの飲み薬
を飲んで隔離中
同27日の火曜日、衣類を病院に持って行く
、コロナの飲み薬で対応中
同29日の木曜日に病院に電話確認、まだ陽
性が続いている。昼前から酸素マスク使用、
尿はキチンと出ている

1月以降については既に記してあるが、後日
整理したい。いずれにせよ、よく頑張ってく
れたと思う。

母には菩提寺の総本山である奈良・長谷寺で
購入した白檀の念珠を左手に持たせた(写真
参考)。そして、母は昔、笑福亭鶴光のラジオ
番組に何度かハガキを投稿し、2回ほど読ま
れている。番組からボールペン等が自宅に送
られて来た。物を書くのが好きな人だったの
で鉛筆とメモ帳も棺に入れて持たせた。
(棺に入れた物 念珠、メモ帳、えんぴつ)

(母の左手に持たせた長谷寺の白檀念珠)

仏衣(ぶつえ)という死装束はあの世に旅立
つ衣装であり、些かお遍路さんに酷似してい
た。念珠を持たせて正解だ。10日夜からし
ばらく私の腕に掛けて、母への感謝の思いの
念を入れておいた。どうか、これを持って今
度はこれまでのような障害を抱えて肩身の狭
い思いをすることなく、他者と同じように仏
の途程を歩んで行って欲しい。そして右手側
には木杖が置かれた。私は納棺師の言う通り
、手足の仏衣の紐を結んだ。

そう言えば今日は私の55歳の誕生日である
。最初、母の火葬を12日で仮押えをしてい
たが、菩提寺の住職の都合で明日になった。
因みに、火葬場では友引が休場だそうだ。そ
んなことは知らなかった。何故なら、六曜
(大安、赤口、先勝、友引、先負、仏滅)の
世界で葬儀等では友引は縁起が悪いらしいの
だが、東京都臨海斎場では開場していると言
う。昨今、これほど多くの人が亡くなってい
る現状で六曜を気にしていたら回らない気が
するがどうなのだろう。六曜と仏教はあまり
関係がないと言われている。火葬が延びたこ
とで安置所の値段も1日分追加になる。要は
、住職の都合と、更に火葬場の都合で安置日
数が延びると費用も更に増えるのだ。従って
当初のプラン以上の金額がかかる。

いずれにせよ、プランによれば安置所での面
会は一度だけなので、昨日の時間は私にとっ
て極めて重要な時間となった。火葬場で母の
顔を見られるのはほんの数分間だけ。私の人
生の中できっと愛別離苦の最もたるものにな
るだろうと予想出来る。従って、昨日の面会
時間が大事だった。しかも誰もいない。母と
二人きりの本当に最後の時間だ。病室以外の
場所で二人でいるのはかなり久しぶりだ。何
も語らず棺で眠っているとはいえ、私には有
意義な時間だった。

私は前もってユーチューブから録音した僧侶
の読経した我が家の宗派の『おつとめ』と、
『般若心経』をメモリーカードレコーダーで
流し、線香を炊いた上で私もそれに合わせて
簡易祭壇の前でお経を唱えた。更に、最期に
私がカラオケで唄い録音した
氷川きよしの『母』
グレープの『無縁坂』
三善英史の『円山、花町、母の町』
前川清の『海鳴り』
の4曲を流した。誰もいないので自由だ。あ
とはもう「ありがとう」の言葉しか出ない。

我が家の場合、母一人子一人という環境だっ
た為に、双方の精神的依存はあっただろう。
特に私に対する母の愛情は極めて高かったと
思う。多分、母の魂は『後顧の憂い』で叫ん
でいるのではないだろうか。他人から見れば
これを子離れ出来ない親、親離れ出来ない子
という評価になろうが、他人は他人の目線で
語るしかない。私もまた他人の家庭をそのよ
うに自分目線で評価してしまっているのだか
ら。

しかし、棺で眠る母を見ながら思ったことは
多岐にわたる。病院関係者は皆、本当に親切
にやってくれたと思う。しかし母自身は長い
長い入院生活で心は疲弊し、ストレスが溜ま
り、私に何度も不満を漏らしていた。退院し
たいという言葉を何度も何度も聞いた。

キチンと決められた通り自宅で服薬出来てい
れば、全く普通の感じの人であり、何の違和
感もない。しかし、何かの拍子で服薬を拒否
しだすと妄想や幻聴が酷くなる。そして服薬
を拒否する度に入退院のスパンが短くなる。
簡単に転院出来るならそうしてやりたかった
が、着替えや面会を定期的にするなら今の病
院がベストだ。

医師や看護師、ヘルパーは皆、母を思い懸命
に仕事をしてくれたが、時々、互いに心ない
言葉を投げたようだ。それも入院が長期間に
及ぶ中、仕方がないと思っている。病院関係
者との心の距離は近くなってしまう。私と暮
している時間よりも、他人である病院関係者
と生活した時間の方が長いのだ。母からした
ら自由はない。家族としたら、こんな長期間
継続して引き受けてくれる病院など何処にも
ないのが現実だ。

では、他の病院となれば母が環境変化に耐え
らる可能性は極めて低い。そもそもコミュニ
ケーションが難しい。かつて千葉県内の病院
に入院した時、かなりのストレスで治療は困
難を期し、皮膚炎と食欲不振が重なり、体重
が30キロ台まで落ちた。当時、私は教習所
職員だったが、何度も職場を欠勤して、入院
中の病院からタクシーで皮膚科に連れて行っ
たり、状態を知る為に面会を繰返した。結局
、私がその病院に強い不信感を覚え、再び東
京の病院に強制転院させた。

こうした詳しい事情を話せない中、私はすぐ
に職場を休む不良職員の烙印を押されてしま
った。それもそのはずで、母の病名は表向き
に開示出来ない。本人も嫌がっている。開示
した場合、堅い職場ほど人の見方が変わり、
なかなか難しい立場で仕事をしなければなら
ない。だが、職場に高額医療費だか何かの書
類を持参した時、母の病名が書いてあったの
で総務の人間は知っていたかも知れない。

いずれにせよ、私自身、当時の上司を信頼し
ていなかったのだろう。やはり建前重視の業
界で評価されている人に、なかなかこうした
環境は理解出来ないだろう。しかし、皮肉に
も数年後に、私が警察の委託の仕事に就き、
何人かの部下を持つ立場となって当時の上司
の気持ちをいやが上にも感じるようになった
のだ。

母に話しを戻すと最近では、令和4年6月3
日、病院から特養老人ホームへの打診があり
、6月7日から順次各種書類を揃えたが、母
自身が現在の病院が良いと珍しく強く希望し
た為に現状となった。今考えても、あのまま
特養に入所していたら、もっと早く体調が悪
くなったかも知れない。

何年か前、退院した母と些細なことでケンカ
した時を思い出した。その時に母が言った一
言が私の脳裏に強く残っている。
「私にも心があるの・・・」
母からしたら私が母の気持ちを少しも考えず
、何かあればすぐに入院させてしまおうとす
る冷たい息子だと深層心理では思っていたに
違いない。確かに母の言い分を無視して、病
院側の話しを優先させてしまったと思う。そ
の度に母は一層孤独を感じ、入院そのものが
人生の絶望と思ったことだろう。それが病院
スタッフへの怒りとなって現れたのではない
だろうか。人は誰でも自分の存在を認めて欲
しいものだ。

一方で、入院中の面会では、
「ご飯食べた?」
「苦労ばかり掛けて悪いね〜」
「ちゃんと食べなよ」
「ありがとう」
という言葉も何度も何度も聞いた。それだけ
が私の心の救いである。

この精神疾患の場合、入退院を繰返す毎に回
復は難しくなる。処方された薬も拒否するよ うになってしまう。拒否すれば更に病状が悪
化し、次に入院させるにも一苦労なのだ。入
院させるまで仕事を休むことになる。入院し
ても安定するまで面会を重ねなければならな
い。遂に私も体調不良となり仕事に集中出来
なくなり退職することになる。母に何かあれ
ば私しかいないのだ。退院後に、不安定にな
れば自宅で見ていないと近所に迷惑を掛けた
り自殺してしまうこともある。こんな私では
会社組織に長く勤められない。それは仕方な
いことだ。

問題は、後日にも書くが、4年5月26日に
内科医から肺がんらしきすりガラス状の白い
ものが前回(4年5月以前)撮影した時と大
きさが変わらないので、急激な変化はなく、
肺炎も大丈夫だと言われ安心していた。高齢
者だから、癌細胞もそんなすぐに大きくなる
とは思えないと考えていた。しかし、内科的
な問題が顕著なのに、その後、この医師は母
の具合が悪くなった後、輸血や鼻から栄養点
滴静注、酸素マスクをしているにも関わらず
、一切、私の前に現れて現状を説明したこと
がない。少し誠実さに欠ると思っている。

いずれにせよ、明日、母の顔をこの眼で見る
のは最期だ。また実際、母と意思疎通が出来
たのは1月29日の面会の時だ。母はしっか
りと両眼を開いて、私の眼を見ながら、
「ご飯食べた〜」
といういつもの言葉だった。これが最期の意
思疎通が出来た言葉だ。いよいよ明日が来る
。やはり私から贈る最期の言葉は、
「お母さん、産んでくれてありがとう」
この一言になると思う。長々と書いたが、こ
うしていないと落ち着かないようだ。
(棺の前で私がお経を唱えた)




令和5年2月10日(金)
本日、午前10時20分、母が旅立ちました
。私の長所も短所も知りつつ、全てを愛して
くれた大切な人でした。今は葬儀社の安置所
で眠っており、明日また面会する。今は素直
に「ありがとう」と言いたい。

やはり火葬場が混雑しており、分刻みのスケ
ジュールの為、火葬は13日15時と決まっ
た。菩提寺に連絡し、火葬前の簡単な儀式を
してもらう。更に従姉が火葬に立ち会ってく
れると言う。大変ありがたい。

葬儀社と各種段取りをして、先程自宅に戻る
。疲れた・・・。母の亡くなる前後の詳細は
後日に書き記したい。昨夜から寝ていない。
少し寝ることにする。

(つづく)



令和5年2月8日(水)
5日、再び母の面会をした。母は眠っていた
ので起こすことなく、私は10分〜15分程
度傍にいて帰ることにした。
(2月5日面会時の母の生体モニター)

面会時に撮影した生体モニターから母の様子
を見ると、最高血圧152、最低血圧93、
平均血圧107、脈拍数119、酸素飽和度
100、呼吸数31だった。看護師が体温を
測りに来たが、37.7℃と高い。酸素マス
クと栄養剤の点滴静注を行っていた。輸血は
面会時にはしていなかった。尿はそこそこ袋
に溜まっていたので、腎機能は動いているよ
うだ。ヘルパーさんらがオムツ交換に来たの
で面会を終えて病院を出たが、ほんの数分間
だが、母にとってこの瞬間、意味のある人生
なのだろうかと考えてしまった。

確かに、私とすれば唯一の家族であり、少し
でも長く生きて欲しいという気持ちは当然の
こと。願わくば心臓の力が今以上回復して、
自力で流動食でも良いので、口から食べれる
ようになって欲しいと願っている。その為に
1月は、
11日 西新井大師
12日 護国寺、靖國神社
14日 我が家の菩提寺
19日 我が家の菩提寺
22日 護国寺、靖國神社、西新井大師
23日 浅草寺
24日 明治神宮、代々木八幡宮
26日 成田山新勝寺
27日 高野山東京別院、川崎大師
28日 観音寺、柴又帝釈天題経寺
31日 築地本願寺、増上寺、芝東照宮、
    芝大神宮
2月は、
1日 真福寺、護国寺
4日 池上本門寺
8日 築地本願寺、波除神社

これだけの寺院及び神社にお参りをした。何
だか近場でお遍路のような真似事をやった感
じだが、願わずにはいられないのだ。そして
自宅では、自身の宗派である真言宗豊山派の
真言も唱えている。

(令和5年1月27日 弘法大師 川崎大師内)

しかし、私の心境に1月とは違う何かが芽生
えて来た。それは、この願いが本当に母の人
生に寄与するのか、ということなのだ。定期
に輸血をし、常に酸素マスクをし、鼻からは
栄養剤の点滴静注をしながら意識も不安定な
中で、果たして母の希望に沿っているのだろ
うか、と考えてしまう。
(令和5年2月4日 日蓮上人火葬場所塔)

何度も近くのお寺や神社にお参りをして祈願
もした。しかし、最早その力がないとするな
ら、母自身、今の治療は寧ろ苦痛なのではな
いのか・・・。私の「少しでも長く」という
願いは寧ろ残酷なことなのではないのか。そ
んなことを帰途の自転車を漕ぎながら思った
のだ。目に見える形で具合が悪くなったのが
昨年の10月半ば。その前後に病院ではコロ
ナウイルスのクラスター感染があり、面会が
出来なくなった。そして12月22日に余命
宣告を受け、更に母がコロナ感染したりと、
年末年始は緊張感が続いた。

そして2月に入った。具合に大きな進展がな
いまま些か延命治療のような形に見えてしま
うのだが、少し調子の良い日は手を動かせた
り、眼をしっかりと開いて私を見ることも出
来て、病室から出る時にはミトンをした手で
ゆっくりと左右に振り、私を見送る姿も脳裏
に強く印象に残る。その姿に、何とか回復を
信じる私がいる。

(令和5年2月8日 築地本願寺 親鸞聖人像)

今、私の手元に宝島社から出版された五木寛
之氏の『死の教科書』という本がある。3年
前に買った本だが、改めて開いている。その
中の50ページ辺りに書かれている文章を読
み、目が止まった。要は、延命治療が果たし
て本人の望むことなのか、寧ろ残酷なことな
のではないのか、という問いだ。勿論、母の
場合は人工呼吸器を装着していないので延命
治療の範疇から外れるが、それと同様なこと
をしていないだろうかと些か自責の念さえ感
じてしまう。何が一番良いのだろうか、と。

更に著書には、こうした気持ちに至るのは、
普段から親に対して尽くして来なかった罪悪
感からの発心であると記されてあり、それは
寧ろ親への愛情というよりも、自分のエゴな
のではないかと五木寛之氏は述べている。

実は、5日に母と面会を終えて自転車で帰路
に向かう途中に思った自分の潜在意識は、こ
の五木寛之氏の苦言が頭のどこかで過ぎった
からだと推察する。確かに私は、過去の日記
を振返ると、生来の自分では如何ともし難い
精神障害を負って生まれ、人生の大半を入院
生活を繰返している母に対し、私は随分と悪
態をつき冷たい態度で接し悲しい思いをさせ
て来た。従って心を共有した経験はそれほど
無かったように思う。それも唯一の家族に対
してである。当然に私の家族観、恋愛観、結
婚観、更には人間関係にも影響を与えていた
ことだろう。その意味で、人間的成長は限定
的であり、何処か心に欠陥があるのだと自分
自身で考えることがある。

思うことは、魂というのがあるならば、母と
の『縁』というのは、私の潜在意識にある冷
酷な心を気づかせ、人間的な優しさへと誘う
教育なのではなかろうか。些か大げさではあ
るが、そう思わざる得ない。

ただ、どんなに願おうが人間は必ず死ぬ。生
老病死があって人間なのだ。死ぬことは寧ろ
生きているものにとって自然なことだ。だか
ら私は死ぬことはやむ得ないと思っている。
しかし、せめて死ぬのであれば静かに、安ら
かに、という願いだけである。私と母との関
係は、やや普通の家族とはかけ離れているが
、だからこそ心理的に深くなってしまうので
あろう。仮に私に他の家族がいれば、とても
とてもこのようにお寺や神社にお参りに行け
ないだろう。他に色々と処理しなければなら
ない問題もある。今でも教習所や警察の委託
の仕事で統括責任者等をやっていたなら、こ
んな時間は持てなかった。その意味で母に向
き合う時間があることを神仏に感謝する。

また、何故ここまでお参りをしているかと自
分自身で問うなら、母が何とか命のあるうち
に私がしておくべきことに苛まれたからでも
ある。上記で述べた通り、五木寛之氏の苦言
ではないが、普段から親に尽くして来なかっ
た思いが今更ながらに、ということだろう。

一方で、人間の家族愛でどうしようもない理
不尽なことは、愛する家族が突然に自分の前
から去ってしまうことだろう。交通事故死、
殺人事件、行方不明もそうだろう。前述した
五木寛之氏は浄土真宗の親鸞上人に造詣が深
いようで、その親鸞上人は浄土真宗の開祖で
あり、続く覚如上人が親鸞上人の教えを要約
し、更に続く8代目の蓮如上人が全国に浄土
真宗を広めたとされるが、その蓮如上人の一
節に『白骨の御文』というのがあり、それに
ついて触れていた。私なりに要約すれば、朝
は元気だった人が夕方には死に、そして夜に
は既に火葬され白骨になって戻ってくる。人
間の生死など、それほど儚いものだと教えて
いる。家族を突然失う衝撃に比べれば、私の
今の思いなど取るに足りないものだ。

この先、間違いなく父もYS氏も、そして母
も無縁仏になる運命だ。先祖代々の墓を維持
する家族はない。1月31日に増上寺にお参
りした。増上寺というのは浄土宗の本山だが
、母方の実家の宗派でもある。その意味で浄
土宗も私の心の中で縁ある宗派だと思ってい
る。調べると、我が国では浄土真宗の次に檀
信徒数が多いのが浄土宗だそうだ。要は念仏
仏教系が日本のメジャーなスタイルと言える
。その境内に無縁仏塔があった。しかも港区
芝という大都会の中にあって、この場所だけ
が何か静寂さが漂っていた。印象に残るのは
この無縁仏塔を見守るかのように東京タワー
が優しく見下ろしている。
(令和5年1月31日 増上寺境内 無縁仏塔)

母方の実家の菩提寺は、母の弟さん(叔父)
が亡くなっても従姉が引継ぐので天保◯年か
らのお墓は安泰だ。一方、我が家は私が死ね
ば墓じまいとなる。これも運命だと父やYS
氏、そして母には赦してもらうしかない。更
に言えば、母の両親、兄弟姉妹はそのお墓で
眠っているが、母だけが無縁仏になる運命だ
と言う現実がある。母だけが血縁者として疎
外のような運命を辿るが、その意味で母の立
ち位置は魂の中で多少異なる存在なのだろう
。だが、今もって、余命宣告されてから1か
月以上も輸血や酸素マスクをしながらも命脈
を保っていられるのは、多くのご先祖様のお
陰だろう。「そろそろどうか・・・」という
ところでお迎えが来るのだろう。

(令和5年2月8日 波除神社 天井大獅子)

今、こうして神仏に縁をしていることで供養
をしている。世間にも多くの人が昔からのお
墓を墓じまいしている。お墓というのは自分
と生前に深い縁をした人との想い入れの場所
だ。ただ、私はたとえこの世の物質的な縁が
終わったとしても、魂のレベルでは延々と続
くものと思っている。父やYS氏、そして母
もやがて生まれ変われるだろうが、私はなる
べく乱世のような焦心苦慮する人間社会は疲
れたので、出来れば浜辺にある貝殻になって
、波の音や傍の山の風の音、そして笑い遊ぶ
子供の声を聴いていたい。

(つづく)