第374号 民主主義の限界、令和6年都知事選を見て(令和6年7月10日) | 生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



令和6年(2024年)7月10日(水)

東京都知事選挙が7月7日に投開票が行われ
、予想通り以下の結果に終わった。この結果
を見て多くの国民が思うことは、

「やっぱりな」

という焦燥感と諦めに似た空虚な気持ちだろ
う。

と同時に、そう思った都民の大半が投票して
いない可能性も高い。何しろ、今回の投票率
は60.62%と近年では高いものの、通年
は50%以上が投票しないという有り様だ。






投票しない理由は様々だが、
 
「適当な人物がいない」 
「投票所に行くのが面倒」
 「誰に投票しても同じ」

そう考えてしまう要因に合点する面もある。
誰に投票しても同じというのは案外当たって
いる。それは、現在の所得が高い人は高いま
ま、低い人は低いままという現状維持が極め
て高く想定されてしまうことだ。劇的に生活
が改善するわけではない。逆に税金が高くな
り生活が苦しくなる事の方が現実味がある。

そうすると、要は『基礎票』という組織の票
が当落を決める事になる。予め当該立候補者
に投票するであろう人数が想定されるので、
Aさんは何処の企業から、Bさんは何処の宗
教団体から、というように票が読める。同時
に期日前投票や投票日当日の出口調査で当落
予想は確実なものとなる。この組織票なるも
のが、果たして健全なのか、最近、疑問に思
うようになっている。要は、仲間意識である
が、違う考えを許さない雰囲気が醸成される
と思う。

しかも、今回の都知事選、政党色を出さない
という不思議な立候補の仕方だった。

この人、◯◯党の代表だったのでは?
この人、◯◯党の看板議員だろう
この人、間違いなく◯◯党からステルス支援
を受けているはず

このように、政治に関心の高い人にはお見通
しの事なのだが、無所属だの何処の支援も受
けていないだのと言って立候補していた。勿
論、某政党からの支持を受ける場合、元々所
属していた政党の看板や公認を外した方が支
持の自由度は増すという事はあるだろう。

しかし、私が毎回毎回思うことは予め立候補
者の事前情報がマスメディアによって不平等
に制限されて有権者に伝わっているという点
なのだ。今回の都知事選は50名以上の立候
補者が現れ、確かにそれ自体、当選を目標に
したものではない人物が個人の都合で出馬し
たと言うこともある。決して都民に有益とは
思えない立候補者も多数散見された。

だが、私はそうだとしても、私のように誰も
読まない日記を長々虚しく記録している輩と
は異なり、『公(おおやけ)』の場所に出て来
て、パフォーマンスにせよ何等かの主義主張
を発しているという点で短い人間の人生を考
えれば立派だと思うのだ。

問題は、当該立候補者を利用して一部の利害
ある人間たちに選挙が差配されることなのだ

今回、有権者に情報として強力に報道されて
いたのは4人〜5人程度だ。選挙戦後半は3
人に絞られていた。出口調査からの結果でそ
うなったとは言え、一部の勢力による限定さ
れた民主主義によって選挙が動いていると見
て間違いない。その意味で、日本に本当の民
主主義は確立出来ていないのだ。

以下、読売新聞オンラインの記事を添付。
(読売新聞オンライン から)

有り体に言って、日本の民主主義はマスメデ
ィアによる一方的で強制的「この中から選択
しろよ」と言う命令的な構造へと誘導されて
いる。しかも、毎日忙しい国民は一人一人の
立候補者の主義主張まで情報を細かく入手す
る時間はない。マスメディアに取り上げられ
ない立候補者の情報は、たまたま通りかかっ
た街頭での演説を数分間立ち止まって聴くか
、新聞の折り込みや駅等の公共の場所で配布
されている選挙管理委員会の公報程度だ。

そう考えると、選挙における民主主義は、専
らマスメディアが先に人物を選択し、その中
から有権者に選択肢を与えているのである。
それを不思議に思わない国民もまた奴隷根性
が骨にまで浸透し、どうしようもないと言え
る。そこに有権者の『選択の自由』は一定的
に制限されている。しかも精神的巧妙に自由
が奪われているという疑念すら抱かずに洗脳
が各人に刷り込まれている。上記、読売新聞
の記者はかなり優秀な人物が多いとメディア
関係者の中で有名だが、記者個人の考え方が
必ずしもデスクに届いているとは思えない。

同時に憂慮されるのは『世論』という名の全
体主義、その空気感に追従してしまう節操の
無さだ。要は、政治家というのは世論、いわ
ゆるマスメディアの協力なしに権力の座に治
まることが出来なくなっているのだ。

選挙が気分、空気感で決められていくことに
本当に私は恐ろしく感じている。

仮に、共産主義に何等かの勢力が舵をきった
らマスメディアも追従するので、日本人の空
気感は共産主義思想の候補者を推す情報誘導
がされるだろう。実際、そのような傾向にな
りつつある。マスメディアに公正公平、正義
があるわけではない。マスメディアも株主最
優先の一つの企業体である。総務省から電波
を許可として与えられ、その電波を使ってス
ポンサー等と協力して商売をしている企業な
のだ。

当たり前だが、公正公平、正義だけで仕事を
しているのではない。そう考えるとマスメデ
ィアを批判するのも酷と言える。問題はマス
メディアがこうした公正公平、正義に基づい
て放送等をしているという勘違いや期待をし
ている私を含めた国民側に大問題がある気が
して来た。テレビや新聞への過剰な信頼、期
待、信仰に近いものが感じられる。

私が仮に報道マンだったとしたら、やはり会
社という組織に迷惑をかけてでも真実を語る
勇気があるかと問われれば二つ返事で
「はい」
とは言えないだろう。放送局も新聞社も大勢
の人が働いている。早朝来るパートの掃除の
人、食堂の人、深夜来る電気設備の人にも間
接的に迷惑がかかる。どの業界もそうだと思
うが、簡単に自分の信念だけに基づいて仕事
は出来ないのだ。そこに人間の悲しさがある

しかも戦後日本のマスメディア、新聞、政党
の成り立ちも一定の基準に基づいて設計され
、その敗戦利得者によって運営されている。
日本の政治家や省庁役人は常に外圧とギリギ
リ戦わねばならないが、さて、昨今の総理大
臣を鑑みると戦っている様子は無さそうだ。
輸出入も医薬品開発も技術も、防衛産業も何
から何まで持って行かれている。お人好しに
リーダーを任せると大変なことになる。

家族でも、外面が良くて家庭では酒乱という
親が結構いる。家庭内が崩壊していても他人
には一切分からない。外面が良いリーダーは
身内が苦労するのだ。外に優しく、内に厳し
い。偽善者の典型である。私もまた、かつて
そんな人間だったかも知れない。偽善の正体
は権力者から嫌われたり、睨まれないように
する為の保身である。我が国の政治家が恐れ
る相手は簡単に言えば米国だろう。米国から
睨まれたら最悪殺されてしまうのではないか
、という暗示である。その暗示が決定的に政
治家の深層心理に影響を与えたことは間違い
ないと思う。

安倍晋三元総理が令和4年7月8日、午後5
時03分に帰らぬ人となってしまった。私は
安倍晋三氏が必ずしも日本国民に有益な政策
ばかり実行してくれた政治家だったとは思え
ないが、この戦後体制の中でギリギリな線で
外圧と戦った総理大臣だと今になって感じる
のだ。

その後、母が令和5年2月10日に亡くなり
、菩提寺の総本山が奈良県にある為に参拝し
た。その帰路で私は安倍晋三氏が銃撃された
近鉄線大和西大寺駅北口ロータリーに足を踏
み入れた。一人の政治家に全ての政策が出来
るはずはないが、この非業の死が、国の針路
を大きく変えてしまったことは確かだ。

(大和西大寺駅北口ロータリー案内図)

(大和西大寺駅北口交差点)

(近鉄大和西大寺駅改札付近から撮影)

私は対米自立は大事だと思う一人だ。しかし
、保守の側からとリベラルの側では日本の形
は大きく異なるだろう。しかし共通するのは
、物事に極端な人は必ず自己矛盾に突き当た
るだろう。かつて教習所の指導員だった頃の
私がそうだった。政治的思想信条とは違うが
、運営の進め方について疑問視して幹部から
劣等職員の烙印を押されていた。その後、運
命によって警視庁の委託の仕事である企業の
小さな組織の長を9年やった。そこで学んだ
ことは、人間社会は殆ど自分の置かれた立場
や環境からでしか物事を解釈出来ないという
反省だった。当時の幹部もまた、教習所の経
営という部分で推進しなければならない事情
があったと認識する。

このように、その職や人から離れて分かるこ
とが人間には多々ある。安倍晋三氏の死去後
の、令和5年6月16日、LGBT理解増進
法が成立した。当初、安倍晋三氏は当該法案
に反対していた。従って健在の時には性自認
の議連は作ったが、棚上げにして来た法案だ
ったのだ。性自認と差別がセットだと国の方
向を誤らせるということで反対だったのだ。
差別はいけないから、この法案は大事だと思
う人もいるだろうが、要は男性でありながら
心は女性だと言えば女子トイレも更衣室での
着替えも認められるのだ。心の問題だから、
ああだこうだ疑いがあっても犯罪として立件
出来ない。果たして、これで女性を守れるの
だろうか。結局、都知事選ではないが、気分
でしか政策を考えられないのだ。

極めつけは熟練外国人労働者の在留資格、
特定技能2号の大幅拡大である。ここで詳し
く書かないが、移民が大量に入ることが決ま
ってしまった。人間だから、そこから小さな
コミュニティーが形成され、政・官・業の関
係から外国人に特化した有益な法律が次々と
成立し、行く行くは参政権にまで発展する。
既に、宗教上の理由で土葬の土地まで明け渡
す自治体もあるようだ。外国人の宗教上の問
題は、彼らの命より価値の高い問題なのだ。
神様との契約であり、そのルールを人間が変
えることは出来ない。そこに、お人好しで揉
め事が苦手、他人と波風を立てる事の出来な
い外面の良いリーダーだと国益は守れない。
また、その下に連なる議員も小選挙区制度が
影響して何も言えない。結局、今だけ、自分
だけの保身。 


ただ、政治的思想信条となると、人間の生命
や財産の問題なので、双方がそう簡単に妥協
出来ないのである。

都知事選の話しから脱線してしまったが、東
京都は日本の首都である。東京都の政策が少
なからず予算編成から道府県の政策に波及す
ると思うのだ。警察で言えば警視庁の取組み
が他道府県警にまで影響するのと同じだ。た
だ、日本警察の発祥は鹿児島県だ。今、色々
と問題になっている鹿児島県警察は日本警察
には特別な場所なのだ。いずれにしても東京
は良くも悪くも日本の在り方の象徴なのだ。

世論とマスメディア、世論と政治、今も昔も
日本人の空気感の弱さは変わっていない。世
論に従わない者の地位や権利は小さくなる。
それは逆に民主主義が機能している証拠でも
ある。民主主義というのは人気主義でもある
が、世論に従うことはその意図的に作られた
意見(オピニオン)の独裁を認めるというこ
とでもある。

民主主義がこれからの日本人に正解なのか分
からない、というのが私の本音だ。かと言っ
て共産主義はそもそも日本人に合わない。

然しながら、共産主義っぽく政治が動いてし
まっている。与党の政治家自身が自覚して共
産主義に走ろうとしているのではないだろう
が、全体の動きがそちらに傾き始めて、今や
その渦中である。結局、私のような砂の粒で
しかない人間だろうが著名な政治家だろうが
、限られた命の中で、限られた出会いの中で
心を動かされ人生を送る。その人間の出会い
の数に応じて、個人の中の世論が形成される
のだ。

いずれにしても、世論というもので形成され
た狭い空気感で物事が決まって行くのが私の
住む現実社会なのである。しかも、国会議員
にしろ地方議員にしろ、知事にしろ、もっと
言えば会社のリーダーを選出するにしろ、世
論という空気感で決まったことに対して、実
は誰もその後の責任を取らない。投票用紙に
住所氏名等は記載しないから、投票後は当該
当選者を批判はすれど、自分が責任を負うこ
とは皆無だ。これも民主主義の限界だろう。
いつも一方通行なのだ。投票後は他人事を決
め込んでいる。まぁ、それも仕方ない。

当選させたが、どうも予想に反した政策ばか
りだし、公約とやらは全然前に進まないから
憲法16条に規定された公務員の罷免をしよ
うと思ってもその手続きも曖昧である。公務
員の罷免の請願は誰でも可能だが、具体的に
やったというのを聞いたことがない。

マスメディアも政党も、結局、単純な日本人
を世論で形成してしまえばどうにでも精神を
支配出来てしまう。これは高学歴だからとか
、金持ちだからとかの要素で罹患度が異なる
という問題ではなく、世論を無視したらどう
なるか、という人間の孤立感、孤独感に立脚
した神経戦の展開なのだ。

しかも世論に追従した結果、政治も経済も衰
退したとしても具体的な責任の所在が分から
ず、誰も責任を取らない。そこには緻密な立
法、行政、司法の連携もあろう。昨今は日本
の三権分立が怪しいとまで言われてしまって
いる。高額年収のマスメディアの各人も、自
分や家族の生活を抜きに公正公平、正義、真
実等を追求しないだろう。私とて躊躇すると
思う。何故なら、家族を守れない人間は失格
だからだ。

家族を持つというのは個人の責任である。逆
を言えば、結婚出来る男の条件として、先ず
自らを守れること、それが出来て他者を愛せ
るのだし、家族を守れる。家族を守れること
が出来て周囲の仲間や組織を守れる。その結
果として国民や国家にまで目が届くのだ。そ
う俯瞰すると、一企業のマスメディアの人間
だけを責めるのは筋違いだろう。

東京都の出生率が0.99だと言う。これは
一人の女性が生涯に産む子供の数を表してい
るが、東京都では1を下回ってしまったとの
事。今回の都知事選でも少子化についての政
策を主張した候補者もいた。結婚出来ない若
者が増えているとも言う。しかし、結婚と子
供と直接結び付けるのは違うだろうと思う。
勿論、結婚した人が子供を授かるのは当然の
前提としても、結婚しても経済的に子供を断
念する男女も結構いると思う。結婚はカネが
無くても可能だ。寧ろ、カネが無いほど結婚
した方が良い。家賃も電気代も足し算ではな
く、独身より得する部分もある。従って、結
婚と子育ては区別するべきだろう。



人間が生きて行くというのは、完全なる誠実
さでは限界がある気がする。美辞麗句だけの
『政策やります詐欺』の選挙演説では偽善し
か覚えない。その政策をどのように都議会に
理解させ予算を国から取って来るのかという
具体案がない。なんちゃって無所属で出馬し
て、都議会では孤立無援なのではないのか。
高学歴のマスメディアの人々はそうした事も
分かっていながら聞かないので残念だ。

真理=必ず人間は死ぬという物理的なもの
真実=人によって考え方、見え方が違う
事実=起こった結果

ただ、マスメディアはせめて思想信条の異な
る対立軸をもっともっと前面に出した討論番
組を制作するべきなのだ。同時にスポンサー
はもっと寛容にして、番組プロデューサーの
自由度を上げることだ。スポンサーがマスメ
ディアの足を引っ張っているのではないのか
。スポンサーは大企業であり、今や株主最優
先である。株主が善良な日本人ばかりとは限
らない。当然、個人の誹謗中傷は問題だか、
思想信条のタブーは極力最小限にしなければ
日本は更に共産主義化していく。

同時に、企業と政界の関係をもっとシンプル
にしてもらいたい。租税特別措置法によって
特定業界を優遇して減税、特に消費税に反対
しない業界を優遇していないだろうか。それ
が選挙の時に具体的な通達がされてなくても
、日本人の空気感で何等かの取引がされてい
ないだろうか。政治と業界というのは、省庁
からの許可、認可、届出、入札が必要な業界
は沢山ある。そうした権力に立脚した権限の
乱用は人間社会にはどうしても癒着、談合と
いう姿で、その良し悪しは別にして存在する
のである。何でも白にしていたら人間関係は
円滑にはならないというのも悲しいが正しい

今回の都知事選にしても、マスメディアによ
って絞られた4人の候補者を鑑みると、誰が
当選しても東京都の政治をコントロールする
のは可能だったのだろう。要は右からのアプ
ローチなのか左からのアプローチなのかの違
いでしかなく、結論はグローバルな政策にし
かならないのだ。後は落選した人物が今後面
倒な存在なら司法によって排除してしまえば
良い。そんな残酷な世界が選挙だと思う。

また、ある候補者には「ヤメロ」コールが踊
り警察官の警備も大変だったように見えたし
、ある候補者には熱狂的な支持者と反対派が
押し寄せ、こちらも一触即発な状態だったよ
うだ。だが、今の日本の社会を冷静に見ると
、現状維持を希望するものと現状打破に向け
た新しい社会の形成を希望する者との戦いに
見えるが、それは外側の目に見える現象であ
り、実は日常の退屈と苛立ちによる現象なの
ではないのか。

だとしたら、この新しい社会を形成したい集
団の熱狂はすぐに醒めるだろう。昨今の新党
ブームもそれに近い気がしてならない。だが
人生は短いので、何かを皆と共有して明日の
社会の発展、構築の為に行動するのは人間ら
しいと言える。私のように日記でああだこう
だと評論しているよりも美しい姿である。

 (つづく)