第372号 民主主義の限界、その1 | 生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。


令和5年5月15日(水)
今、これほどまでに社会秩序が壊れていくの
を感じたことはない。下の1〜5番の記事の
ように、日本各地で毎日のごとく鉄道人身事
故が発生している。特に首都圏ではそれこそ
緊急事態だと思う。

(1 鉄道人身事故記事 レスキューナウ)

(2 鉄道人身事故記事 レスキューナウ)

(3 鉄道人身事故記事 レスキューナウ)

(4 鉄道人身事故記事 レスキューナウ)

(5 鉄道人身事故記事 京都新聞)

それでも、自分が乗合せた電車でなければ、
「またか」と溜め息をついてホーム上でスマ
ホを見ながらイライラするのが日常だろう。
その裏で、飛込んだ本人がどのような人生を
歩み、どのような事情を抱えて自ら命を捨て
ようと決意したのかは知る由もない。そんな
ことよりも、今、自分が向かおうとしている
場所や待たせてしまう相手ヘの負目で頭が一
杯になる。所詮、人間個人の思考は常に亡く
なった他者やその関係者に想いを向けるので
はなく、自分の保身にある。

だが、間違いなく亡くなった人に家族がいれ
ばその人達の悲しみは他人でも感じようと思
えば、それは想像を遥かに超えるだろうこと
は人間であれば誰でも分かる。分かるが、現
実として何をしてあげられるわけではないの
だ。そればかりか、逆に駅員に怒鳴り散らす
人間まで現れるのだから困ったものだし、車
内放送で車掌が遅延を「電車が遅れて申し訳
ありません」と、車掌に何等か責任等ないの
に謝罪している始末だ。

しかし、本当に謝らなければならないとした
ら、国民を絶望に陥れたこの国の指導者層の
人達だろう。確かに一人一人の道すがらの人
間の人生まで知らないにしても、国民が何に
悩み、何に悲しんでいるかくらいは心で感じ
て、そして改善して欲しいものだ。ところが
、彼らは国民から得た税金を裏金としてキー
プし、国民に開示出来ない使途不明金にして
いた。

(6 自民党派閥政治資金問題 テレ朝)

(7 岸田、バイデン TBSニュース)

(8 岸田売国訪米 チャンネル桜)

政治は果たして「誰」のものか。今、私がマ
スメディア等から発信され認知している政治
家らの言動や行動を操っているのは果たして
誰なのか。そして、この国に真の民主主義が
存在しているのか。そもそも民主主義が本当
に素晴らしい政治手法なのか。だからと言っ
て、共産・社会主義が正しいとも思えない。
そもそも私は、民主主義に限界を感じている
。しかし、共産・社会主義は平等を掲げて、
国民の資産を国家に上納して、貧困層は一見
して安定した生活が保障される気もするが、
それは権力者によって如何様にもカネを差配
出来ることを意味し、国民全体が心まで支配
される気がする。同時に、民主主義の成立は
マトモな国民の民度によってのみ成立し、そ
の成熟度に直結する。

国の政治の方向性を決定づけるものの一つが
選挙である。思うに、政治家選択は右でも左
でもなく、いわゆる無党派というどっちつか
ずの、日頃政治に無関心な人々によって決定
されるものだろう。何故ならば、特定の政党
支持者は固定され、大凡の数字は計算出来る
からだ。要は、一部の思想を持った人間集団
による政治政策の実現である。例えば、海外
投資家等のグローバル企業、宗教団体、慈善
団体だ。この者達ちによって組織票を固め、
それらが優遇される政策が実行されている。
同時に、今の体制を維持するには、どっちつ
かずの無党派層を選挙に行かせない為の工作
をしなければならない。政治的特定者は頭打
ちだが、無党派は無尽にいる。数の上では、
一番強いのだ。

また、昔も今も政治に関心がある人と無関心
な人の割合は大して違わないと思っている。
それが良くも悪くも日本人の体質なのだ。ま
た世代間でも多少の違いはある。政治に関心
がある層では、主に団塊の世代はリベラルの
人が比較的多い。彼らの親世代が大東亜戦争
で戦った為、その反動というか、反戦の意識
が強く、それがいわゆる『公(おおやけ)』
という精神よりも『私(わたくし)』を大事
にした世代なのだろう。彼らの青春時代、
『個』を重視、そこから出発した人間の感情
の中に潜む矛盾が、映像や音楽といった芸術
の世界で内なる心を投影した。

一方で、その矛盾が『公(おおやけ)』を破
壊しようとして国民から強い怒りも買った。
彼らの青春時代、私は幼稚園か小学生だった
。その頃、最寄り駅の改札口前には、手や足
が無い人がゴザを敷いて、ハーモニカやアコ
ーディオンの楽器を弾きながら物乞いをして
いたのを今でも鮮明に覚えている。後に、そ
の人々が大東亜戦争で戦い、爆弾等で手足を
失った人だと分かった。そう考えるとリベラ
ルこそ、靖國神社に参拝すべきと思う。

このような光景を見ると、どうして国家の為
に戦った人がこのような物乞いをしているの
か、甚だ疑問であると同時に、国がこの人の
手となり足にならねばならないだろうと思っ
た。それが原因かも知れないが、当時、リア
ルタイムで観ていた仮面ライダーという番組
で、些かショッカー戦闘員に同情を禁じ得な
かった。子供ながらに、仮面ライダーもショ
ッカー戦闘員も同じようにショッカー首領に
改造された仲間だ。しかし、仮面ライダーは
脳の改造前に脱出して助かり正義のヒーロー
となるが、戦闘員は人間から完全に改造され
てしまう。元は同じ人間だったということと
、首領に強制的に改造されたという点では戦
闘員も同じなのだ。違うのは、仮面ライダー
の正義の発心は、正常な脳からの怒りと憎し
みである。ショッカー戦闘員は従順に真面目
に首領の目指す世界を実現させる為に戦う。
些か、我が国の政治家や役人を気の毒に思う
ことさえある。彼らは単なる戦闘員かも知れ
ない。日本の本当の首領は誰か?

ところが、戦闘員は悪としてその命を終えて
いくのである。私は非常に複雑な思いで観て
いた。この感情が一種のリベラルかも知れな
い。あくまでも戦闘員個人の生涯を中心とし
た考え方だ。他方、人間が生きる上で、その
命の基盤を形成しているのは『公(おおやけ
)』という社会だと言うことだ。仮面ライダ
ーを観ることが出来たのは、本郷猛にしろ、
一文字隼人にしろ、怒りと憎しみの中から生
まれた正義だが、そこには慈愛と他者ヘの労
りが描かれていたからだ。それは正に『公』
の精神である。勧善懲悪的なストーリーなら
分かりやすいが、人間の精神をダメにする。

人間はどんな時でも必ずこの社会システムの
中で生きている。どんなにニヒリズムに浸っ
ても社会があって自分の存在がある。その考
え方、これが保守思想だろう。

要は、『個』を出発点とした生き方なのか、
『公』を出発点とした生き方なのかで政治的
思考が決定される。

しかし、私の心の中には確固たる政治的思考
はなく、左というリベラルの要素も右という
保守の要素も含有されている。従って、私は
一つの政党に固執しないので、何等かの政治
的な集まりで、リベラル、保守それぞれ居心
地が悪いのだ。例えば原発問題にしても賛成
・反対という二者択一の結論を強要して、賛
成なら右、反対なら左という単純な回答を求
めるが、本当にそれで良いのか。賛成の中に
も原発に危険な要素があるのではないかと危
機感はないのだろうか。原発のゴミ処理はど
うするのか。また、反対というなら、原発に
変わる安定的なエネルギーはあるのか。今、
話題の太陽光パネルだが、ほぼ中国企業が運
営している。エネルギーやインフラを外国資
本にやらせて外交上問題ないのか。賛成にも
反対にも心配な面があるのに、賛成派は賛成
派でつるんで、反対派は反対派でつるんで、
「そーだ、そーだ」と気炎を上げているだけ
なので、何も進まないばかりか、政治家の利
権で物事が決まってしまう。食糧問題にして
も日本は劣勢で、海外に足元を見られている
のだ。結局、単純に言えば右も左も同じ穴の
狢であり、右は右の利権を欲し、左は左の利
権を欲しがる。取り残されるのはその他大勢
の無党派層である。更に、政治的に熱心な人
は、案外、時間的余裕のある人か暇人である
。多くの無党派層は毎日毎日、仕事で忙しい
のである。政治に向合う時間はない。ないか
らこそ、一部の組織票が跋扈する。その意味
で絶望を感じる。

唯一、右も左も声を上げているのがどんどん
進んでいる増税だ。国民に見えない形でやっ
ているから『ステルス増税』と言われている
。国民の負担が更に増す。国民から取った税
をウクライナの戦後復興支援に使うのではな
いかと疑われている。本当に日本に政府があ
るのか甚だ疑問である。未だに戦後の占領支
配を続けている気がする。戦後利得者は保守
にもリベラルにも食い込み、互いの役割の中
で国民を洗脳し、ある一定の勢力拡大を計っ
ているように思えてしまう。どちらが優勢で
も必ず儲かるように出来ているのだ。

このように、一人の一般国民が保守主義に走
ろうが、リベラルに走ろうが、それは日本の
体制を決定づける首領からしたらどうでも良
いことなのだ。そもそも個人はそれぞれどん
な家族の下に生まれたか、どういった職業の
中でどんな人間関係を生きて来たかで、概ね
の思想が想像出来るし、学校や職業の価値観
で人間形成されていくものだ。その過程の中
で出会った人間関係から、より深い確固たる
思想が出来上がる。

しかし、私はこうした曖昧な人間なので、確
固たる政治的信念のある人々と深く繋がるこ
とはしない。その意味で集団から外れた場所
で生きているので、思想的に深い人間関係と
いうのは、なかなか築けない。それは人間と
して、もしかしたら致命的なのかも知れない

(9 大乱戦東京15区 文化人放送局)

(10 選挙妨害 産経新聞)

(11 さとうさおりさんの動画より)

(12 岩田温さんの動画より)

(13 選挙妨害 文化人放送局から)

(14 よつば特派員さんの動画より)

(15 選挙妨害 飯山陽さんの動画より)

昨今、東京15区という選挙区で衆議院補欠
選挙があった。その選挙戦の最中、立候補し
ていた者が同じく立候補者に対して拡声器等
を使用して大音量で選挙妨害をして話題にな
った。

確かに、立候補者にはそれぞれ主義主張があ
るので、それは良いとしても、各立候補者の
演説を聴きに集まり又はたまたま通行中に足
を止めて聴く人々の妨害行為になったと思う
。妨害行為を行った立候補者は、当選をして
自己が目指す政治を実現したいわけではない
ようなので、そもそも他の立候補者とはその
目的が異なる。広義の解釈としたら、彼らも
何等かの勢力に利用されているのかも知れな
い。

ここで感じたのは、妨害を受けた立候補者の
うち誰が最も被害を受けたのかというのは主
観的問題だが、やはり警察や多数のボランテ
ィアに警備されなかった立候補者と言える。
それと同時に、妨害者の政治的思考が正しか
ったとしても、日本人気質からして合点出来
るものではない。だが、こうしたことに発展
したのも、日本の政治、政治家、選挙が軽く
なってしまった証拠であり、冒頭の鉄道自殺
ではないが、政治が人間の命を左右している
という現実を軽視した結果だろう。政治がエ
ンタメの一つになってしまった。

民主主義が次第に破壊されつつある。民主主
義の限界が今回の東京15区の選挙妨害者の
姿である。政治的な思想云々ではなく、そも
そも民主主義は最低限の道徳心に立脚された
ものでなければならない。だが、残念ながら
民主主義が不道徳な人物を生み出すのも事実
である。今回の件もそうだが、民主主義は世
論誘導を企図するには大変便利でもある。大
衆を扇動すれば良いのだから。従って、民主
主義が真っ当に運営出来るのはマトモな国民
がいるうちだけなのだ。国民の民度がおかし
くなればおかしなリーダーが生まれる。あの
ヒトラーも民主主義の選挙で国民が選んだ政
治家だ。独裁は共産圏ばかりか、民主主義か
らも生まれるのだ。

(つづく)