胃カメラ
自分には一生無縁だと思われていたモノの一つである。
去年の9月、突然の胃痛に襲われ近所にある行きつけの薬局へ助けを求め飛び込んだ。
何か事あるごとにその薬局へ行く為、いつも自分専属の相談役(勝手に思っている)となっている薬剤師から『またコイツ来たよ』といわんばかりの形相で「今日はどうされましたか?」とすぐさま声をかけられた。
いつも薬を求めてこの薬局へ行くと最終的には「う~ん。あんまり酷い様だったら病院へ行って下さいね」というお達しを受ける。しかし自分は病院が嫌いなのだ。なるべくなら行きたくない。いつも限界まで痛みを我慢し、もうダメだと思った所で薬局へ行き、薬で治るものなら治したいとささやかに願う。その為、自宅にて痛みに耐える姿を披露する度「どこか悪いんじゃないのか。病院で精密検査をしてもらった方がいい。まぁ、頭は元から悪いがな。」といった憎まれ口を父親からたたかれるがオマエの子である。
胃を押さえつつ「今日は胃が痛い」とだけ薬剤師に伝えると棚に並べられた数種類の胃薬を数点手に取り効能等の説明をしてくれていたが『ヤクぅ~、ヤクをくれぇ~!は‥はや‥‥く‥』という自分の心と闘いながらも必死に「あ、そ‥それにします。それを下さい‥。」と声を振り絞り、何でもいいから早くくれと効能うんぬんの話を全く聞かないまま胃薬購入に至った。
『これでやっと救われる‥』
そんな思いを抱きつつ自宅へと飛んで帰り、さっそく薬をほおばった。
しばらくすると効いてきたような効いてきてないような、痛いような痛くないようなという良く分からない感覚になった為、とりあえず悪化阻止成功に安堵しそのまま一日を終えた。
次の日、胃痛とダルさで目が覚めた。胃痛が完全復活した上に40度近い熱がある。
『何だか自分の体はヤバい事になっているんじゃ‥』
胃の激痛と寒いんだか暑いんだか訳の分からないコンディションで視界もおぼろげに車を運転し、胃痛と発熱を引き連れ最終手段の病院へと向かった。
緊急外来は意外と空いていた為すぐにお呼びがかかりフラフラと個室へ入って行くと、中には女医と研修生がおり「胃が痛くて頭もガンガンする。熱もあって食欲が全くないんです」と訴える自分を見ながらニコニコとしていた。その笑顔につられている場合ではないと思いつつも、ひきつった不気味な笑みをヘラヘラと浮かべる自分がいた。
「胃を診てみましょう」という女医さんの提案で、超音波検査と念のために血液・尿検査をしたがドコにも異常は無かった。「とにかく胃がヤバいかも。胃痛がハンパじゃないんです」と、頭の中が胃痛ではちきれそうな自分の申告の後「風邪ですね。胃痛はストレスからくるモノかもしれません。胃カメラ飲んでみましょうかね?」
‥という経緯により、人生初となる胃カメラの予約を入れたのである。
胃カメラは希望者殺到という事で、実地日は2週間後となった。
『人気あるなぁ、胃カメラ。そんなにいいモノなのかなぁー。』と、期待で胸をワクワクと膨らませながら2週間後に控えた胃カメラ日まで待つ事にした。
その間職場では「胃カメラの予約をした」と同僚に触れて回った。
『胃カメラの予約』と言う事で何だか大人チックな気分になり『胃カメラを飲む事はカッコいい』という、ドコからきたものなのか分からない錯覚に陥った。
昼休みの話題は胃カメラに集中し胃カメラ談義で持ち切りとなった。それによって「胃カメラは毎月1回飲んでいる」「先生によってスムーズにいくかいかないかってのが決まる」「一番最初にとても太い注射をする」という胃カメラ経験者の声を聞く事も出来たが「あれは本当に嫌だった。画面をまともに見る事も出来ず涙がこぼれてきたし吐きそうになって涎もでた。本当に辛かった」やら「何回もやっているからもう慣れた。でも初めての時もそんなに嫌な感じはしなかったと思う」といった話も出た為、結局はやってみないと分からないという結論に達した。
2週間が過ぎ、とうとう念願の胃カメラ日がやってきた。
前日の夜はヤボ用が入った為、飲み屋へ行きビールを2リットル程飲んだ。「明日は胃カメラがあるから飲み食いは8時59分まで」と得意げに店のスタッフと相手に伝え、時計を確認しながらの飲みとなったが、9時以降は何も食べてはいけないという掟だけは守った。
だが2日酔いか、気持ちが悪い。胃カメラを飲む前から吐きそうである。このままではたぶん吐く。何も滞在していないカラッポの胃から何かが出るかもしれない。飲まなきゃよかったと後悔しながら病院へと向かい、到着してからすぐに問診を終え胃カメラの部屋へと案内された。
外の待合室に腰を掛け、シーンと静まるその場所で逆流する胃液と闘っていると、すぐ真横の出入り口から目に涙を溜めながらハンカチで口を押さえる若い女性が出てきた。
『あぁ。涙と涎が出たという話を聞いたっけなぁ。本当に出るんだなぁ。』などと同僚の体験談と実際に自分の目で見る状況が一致した事に感動していると、引き続き年配の男性が凛とした姿で颯爽と出てきた。その姿を見て『平気な人も居るんだなぁ。自分も案外平気だったりして。フフフッ。』などと強い自分を想像しながらニヤリとし平静を装ったりもしていた。その後、胃カメラを終えた人々が続々と出て来る中『平気ではなさそう』な人の割合が多いという統計が出た。『とりあえず涎はさておき人前で涙は流さないというモットーだけは貫こう』というくだらない誓いを立てているところへ名前を呼ばれ中へと入った。
「まずはソコにあるモノを飲んで下さい」
白い紙コップを笑顔で指さされたが、これは一体何なのか。
しばらく見つめていると「胃を綺麗にする飲み物です」と伝えられた為、「これは一気ですか?」「はい。一気です」と、英語の教科書に出てくるような会話をした後、隣の部屋へと案内された。
その部屋には3人掛け程の真っ白な長イスが縦に7つ設置されており、胃カメラ待ちの人々がチラホラと疎らに座っていた。腕組みをしながらジッとする人、背もたれに寄り掛かりながら寝る人、本を読む人等で会話の一切ない静寂な空気が漂っていた。
こういう雰囲気いいなぁなどと思いつつ腰を掛けると、前方のガラスケースが視界に入った。
そのガラスケースは床から天井までのとてつもなくでかいケースであり、さまざまな胃カメラらしきものが展示されていた。コタツコード程のモノから電線やガス管程のいろいろな太さの黒いコードが上から下までだらんと垂れ下がり、横1列に綺麗に並べられ、その各々の先端には透明のレンズらしきものがついていた。
『思っていたより太い』
ガラスケースによって不安が生まれた。もう不安の何者でもない。不安で逃げだしたい。
あんなモノがこれから体内に潜入するというのに、ここに居る人々は何故こんなにも冷静なのか。本を読んでいる場合ではない。おまけに寝ている場合でもない。いや、もしかしたら恐怖で失神しているのかも‥などと余計なお世話な上にいらぬ心配をし、数分前に「いいなぁ」と感じた室内の静けさで不安はMAXに達した。
どうにか不安だけは拭い消したい。胃カメラだと思うから不安なのだ。
『あの黒くて長いのはうどん。ここはいま巷で有名なうどん屋で、あれを1本飲みこむという事は選ばれし者に与えられた特権。ここに居る人々は、そのうどん屋で生産されている幻の1本を幸運にも食べる事の出来る強運の持ち主』
いま自分の居る場所はうどん屋だと思う事にした。
自分をごまかす為に作られたバカバカしい妄想と分かりつつ、そう思う内に段々と自分に洗脳され「早く食べたい」と思うようになった。『黒いうどんはどんな味がするのか。長過ぎて飲みこめなかったら途中でちぎれちゃうかも』
妄想も危ない域に達した瞬間、自分の名前を呼ぶ声に気がついた。
『とうとうきた。幻のうどんを食べるこの時が!』
今思うと、自分は本当に追い詰められていた。
自分で自分を洗脳するという危険な思考。
自分で自分を騙し自分自身が騙されているのだから罪にはならないが何だか危ない。
名前を呼ぶ声のする個室へ入ると「それを飲んで横になって下さい」と指示が下された。
『これは、うどんの味がより分かるよう味覚を覚醒させる飲み物。こだわりを持った頑固オヤジの店か。フフッ』などと、未だうどん屋にこだわる自分に「それは喉を麻痺させる薬です。飲んだ後、喉が麻痺するので感覚が無くなります。しばらく気持ち悪いですが我慢して下さいね」と医者が言った。
『うどんの味が分からなくなっちゃうなぁ。』
もう潔く降参したい。自分を騙すのはもう限界にきた。でもうどんで貫き通したい。
しかし喉の異様な感覚により、一気に現実世界へと戻った。感覚が無いというよりも自分の喉がドコへいったか分からない。喉のあった場所には何か別のモノが組みかえられたという奇妙な感覚に陥り『これから胃カメラ』という不安と恐怖が再び襲ってきた。横になった枕元には注射器があり、この注射の事かと同僚の話を思い出した。
「それではいきますよー。口開けてー」
恐る恐る口を開けると黒い物体がズブブッ!と口内へ侵入した。
「喉通りますよー。ちょっと気持ち悪くなると思うけど一瞬だけだから我慢して下さいねぇー」
麻痺はしているものの喉にググッという鈍い感触がある。ドアに指を挟んでジ~ンとした直後に触ると触っている感覚はないのに若干感触がある。といった感じに似ている。
「はいっ。鼻で息をして下さいねー」
息がうまく出来ない。喉を封じられた事により、鼻呼吸の仕方やら息を吸ったりはいたりのタイミングがよく分からない。
「はいっ。ここ過ぎると楽になるからねぇ~」
医者のその掛け声と共に、喉から自然と嗚咽が出た。
「ウエッ!オぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!!」
自分は果たして何の生き物だったか。
こんな奇声、普段出せと言われても出せない。今まで聞いた事もない自分の奇声に驚きつつ、腹と目頭に力が入ったせいか涙が滝のように流れ、そして涎も流れた。
その後「はい。もう後は楽ですよ~」という医者の言葉に騙され、終始「ウェッ!オェェッッ!」やら、声にならない無言の嗚咽を繰り返しつつモニターに映る自分の胃と、胃カメラ先端にオプションとして付属されている洗浄機での胃やら他の臓器の洗浄模様を見つめながら、それに対し話しかける医者の言葉に頷いていた。
「ここにポリープが3つあります。でもこれは良性だから何ら問題無いので心配しなくて大丈夫ですよ~。」
そのポリープとやらを涙溢れた目でジッと見つめ、止まらぬオェッ!をどうしたら抑える事が出来るかという事で頭はいっぱいだった。
「はい。では、抜きますよー」
麻痺した喉をズルズルと管が横切る何とも言えない感触がしばらく続き、数分後、あんなに待ち遠しかった胃カメラからようやく解放されたのである。
ベッドに座り、半ば放心状態のまま耳と下半身以外の穴という穴から排出された体液にまみれた小汚い面をさらけ出しつつ医者の話に頷いていたが、鼻汁と涎が気になり何を伝えられたのか全く覚えていない。ただ、窮地にさらされている中での「ポリープが3つある」という言葉だけは覚えており、自らの体内にはポリープという未知な物体が潜んでいるという収穫を得た事に満足した。
胃カメラ
デビューはしたものの、もう2度とやりたくはないと思うモノの一つである。