「凪待ち」の面白いところは主人公に「共感できない」加減の絶妙さだと思う。普通映画を見る時は主人公に何となく感情移入して見ると思うが、郁男はどうにも感情移入しきれないキャラクターなのだ。「日本で一番悪い奴ら」の綾野剛くんはダメだけど最初から最後までわりと共感できるし、「凶悪」は山田くんと池脇さん夫妻に共感できる。「彼女がその名を知らない鳥たち」の蒼井さんは最初は全く共感できないが見ているうちにどんどん同情を誘われる。郁男の場合、最初は「ダメだけど悪い奴じゃない」という感じで見ている側の共感と同情を誘ってくるが、話が進むにつれて本人の行いがこっちの共感をバッサリと断ち切ってくるのだ。かと思うとやっぱり同情を誘われ思わず共感してしまうようなことが起こり、しかしその直後にその気持ちが再び裏切られる。その繰り返しによってもたらされる心理的負担が大きすぎるため、見ている側はそれを解消するカタルシスをドラマの中で強く希求することになり、物語において郁男が救われなければならない内的必然性が生まれるのである。
何故見ている側がこんなめちゃくちゃな男に救われて欲しいと思ってしまうのかといえば、それはやはり郁男の中に自分を投影しているからだろう。郁男は見ていて「自分はこんなことはしない、こんな奴にはなりたくない」と思わされるキャラクターだが、しかし同時に見ている各々が彼の中に自分の影を見つけてしまうような存在、つまりネガティブな自己像として造形されている。だからこそ観客は彼をただの物語のキャラクターとして見捨てることができないし、彼が救われることで自分の中にある救われない何かが救われるような気がするのではないか。自分の中の負の部分を見つめるのは苦しい。だから郁男を見るのは苦しい。しかし現実の中ではなく救済が約束されている虚構の中で心の奥に潜む自らの負の部分に触れること、その救済によるカタルシスによって精神が浄化されること、そしてそれが現実を見つめる契機になることこそが物語という芸術様式の存在意義の1つであるとすれば、この作品はまさにその本質を体現していると言えるだろう。物語の最後、主人公と我々観客との間の緊張関係が解消された後に訪れるエンドロールは、郁男をはじめとする物語の登場人物の苦しみをいまや我が事のように感じている観客にとって、現実に震災で大切な人やものを失った人たちの苦しみもまた決して他人事ではないということを感じさせ、虚構から現実に眼を向ける契機となる重要なシークエンスであり、この作品が内包するメッセージに一段階高次なスケールと普遍性を付与することに成功している。石巻の海に沈むものたちを目の当たりにした観客の胸の内に生まれる祈りはこの物語の中でのた打ち回りながら生きているすべての人々、そして現実世界に生きるすべての人々への祈りに繋がっていくのである。







