修辞学はつねに一般的なものの特殊化を求め、一般と特殊との綜合としてそれは表現的である。我々は自分の理由によって他の者を屈服させることができるにしても、彼自身の理由によってのほか他の者を心服させることができない。したがって修辞学は相手の人間の心理や性格を考慮し(ad hominem)、彼らがそこに彼ら自身の理由を見出すようにしなければならぬ。この場合他の者において前提されるのは彼らの真実性である。そして我々の真実性のみが彼らの真実性を喚び起し得るであろう。しかしながらいかなる根拠に基づいて話す人と聴く人とは一致し得るであろうか、その一致が単に主観的なものに過ぎぬものでないということはいかにして可能であろうか。もしも問題が非人格的な対象的な真理に関わるのであるならば、かような一致の根拠は対象そのものの有する客観性に存すると考えることもできるであろう。けれども問題が人間的な行為的な真理に関わりその思考が性格的であることを本性とする修辞学の場合にあっては、解決は単にその方面に求められることができぬ。話す人と聴く人とが社会的にパトスをともにするということは一致のひとつの根拠であるに相違ないが、それのみでは客観性の保証は与えられていないであろう。修辞学的思考の客観性、単なる客観性以上の、 単に論理的な思考の客観性よりもさらに深い意味における客観性の根拠はどこに存するのであろうか。