政治家エマニュエル・マクロンの生みの親、オランド大統領と決別するため、2016年8月30日、マクロンは経済産業省のあるBercy(ベルシー)からエリゼ宮(大統領官邸)へと移動するための小型連絡船に乗り込んだ。セーヌ川岸の船着き場には大勢のマスコミが押し寄せ、彼の一挙手一投足を見守っていた。これが、マクロンにとって経済産業大臣として最後の乗船であった。

 

同日、15時。エリゼ宮の大統領執務室で、マクロンはオランド大統領に経済産業大臣辞任の意思を告げる。2人の面会は30分にも及んだという。この30分間、父と子、2人だけの面会はどれほど緊迫したものであったろうか。しかし、マクロンは、面会はとてもうまくいった、大統領はちゃんとわかってくれたと近しい知人に漏らしたという。

 

この歴史的な面会について、オランド元大統領の友人ジュリアン・ドレイはこう語っている。

 

≪おそらく、この時すでにオランドは次の大統領選挙には出馬しないと決めていたのだろう。だから、オランドはそこまで強くマクロンを引き留めようとしなかった。≫

 

しかし、この時でさえ、マクロンは自身の大統領選出馬に関して態度を明確にしていなかった。

 

それから約3か月後の2016年11月16日、パリ北東部のボビニーという場所でマクロンは大統領選挙に立候補することを正式に表明する。この日を境に、マクロン陣営は選挙戦に勝利するためのあらゆる作戦を実行に移すのだ。

 

まず、マクロン陣営En Marche(前進)はパリ15区にあるアベ・クルー通りに選挙本部を構えた。ここはまるでスタートアップ企業のように勢いにあふれた空間であったという。1階にはボランティアスタッフの詰め所、その上階には記者会見場と選挙スタッフの事務所が、そして、6階のもっともセキュリティーが厳重な場所に参謀本部があった。ここで、最大の黒幕イスマエル・エメリアンやマクロンの為になら死ねるという忠実な仲間が集まり選挙戦の陣頭指揮を執っていたのだ。

 

一方、En Marcheの重要事項は全てトップダウンによって決められており、1950年代の共産党を思わせるようなやり方だったと言われている。よって新しく選挙活動に参加した人々に対しては配慮に欠けるような対応もあったようだ。

 

しかしマクロン陣営は選挙戦が進むごとに、ミスを犯さないように慎重に戦ってきた。

 

マクロンの選挙戦を取材してきた作家のフィリップ・ベッソンはこう語る。

 

≪共和党の大統領候補者選挙の3か月前の2016年9月時点で、最有力アラン・ジュペが敗退するとの見通しが強まった。マクロンに追い風が吹き始めた。そして、12月、社会党候補者選挙で元首相のマニュエル・バルスが不利な情勢に追い込まれているとの一報でますますマクロン陣営に勢いがつく。さらに翌年、共和党候補フィヨンの汚職問題が発覚した際、マクロン陣営は勝利を確信した。≫

 

勢いに乗ったマクロンは、情熱的な語りやジェスチャーを用いて演説をおこない、聴衆の心を動かしていった。

 

現職の内務大臣ジェラード・コロンブはマクロンの演説についてこう語る。

 

≪それは信じられない雰囲気だった。選挙戦でもっとも素晴らしい時間だった。思い出せば出すほど感動的だ。≫

 

(続)