日頃、研修やメンタリングを通じてクライアントの皆様にパワーチャージすることを目指している。そのためには、自分に対するパワーチャージが欠かせない。だから私にとって、パワースポットへの旅行がとても大切、というか不可欠な「仕事」である。

 

 Googleカレンダーにぽっかり空欄が空いた6月下旬。

しかし肝心の旅行先がなかなか“降りて”こない(いつもなら、神様のお告げよろしく「行きたい!」という場所が、天から「降りてくる」のに…)。そもそも梅雨の真っ最中、あまり旅行に相応しいタイミングでもない。

 しかし、夏至である。1年で一番「昼間」が長い日は、太陽のパワーをチャージするのに最適なはず。発想を変えて、6月22日の天気予報が「晴れ」の地域を探す。

 北海道! 

 十勝の牧場や釧路平原もいいけれど、今回はちょっとしっくりこない。

 函館! 知っているのは五稜郭と函館山と湯の川温泉、そして親しい友人の出身地、というくらいで、未踏の地。行ってみたい!ようやく「降りてきた」感が湧き上がる。

 

 というわけで、6月22日から3泊4日の函館の旅。今日はその復習です。

 

 一番面白かったのは、今回は自然のパワースポットより、その地に縁の「人」に惹かれたこと。

 渡邊熊四郎氏。赤レンガの「金森(かねもり、と読む。英語表記は “Canemori“)倉庫」をつくった人物である。倉庫の名前が「金森」であることはもちろん、その創設者が「金森」ではなく「渡邊」というのも、初耳だった。

 初日、朝8時半に函館空港に到着し、9時半に函館朝市を歩きを始め、きくよ食堂で三食丼を食べて、赤レンガ倉庫にたどり着く。この日は、石畳沿いに並ぶ三角屋根が端正だなぁ、と思った程度だった。3日目は雨。屋内観光にはぴったり、というわけでもう一度ゆっくり金森倉庫内を巡る。その一画に据えられた大きな液晶TVで、赤レンガ倉庫と渡邊熊四郎の歴史ビデオに目が釘付けになった。3回観てしまった。

 渡邊熊四郎は、1840年大分県竹田市に生まれ、1863年に函館に来て洋物店を開業。明治維新の西欧化の流れに乗り、靴製造、時計店、書店、船具など商売を拡げ、1887年に倉庫業に乗り出す。今でいうところの、シリアルアントレプレナーだ。倉庫は1907年の大火事で全焼してしまったが、1909年に再建された不燃質の倉庫が、今の金森倉庫だそうだ。

 私が何に感動したかというと、こうしたビジネスの多角化に加え、函館・北海道の発展に貢献すべく、様々な公共事業を興したことだ。書店に新聞縦覧所を併設し、さらに新聞を発刊したり、小学校や病院を開設したり、函館公園の設立資金を寄付したり。明治初期には、渋沢栄一や岩崎弥太郎など、名だたる「シリアルアントレプレナー」が輩出されたが、函館にもそういう人がいて、今の函館の礎づくりに八面六臂の活躍をした、ということに、しみじみ感じ入ってしまった。

 「やらなければならないことがたくさんあったんだなぁ」というのが、馬鹿みたいだが、率直な感想だった。

 

 洋服や靴が「洋物」という希少な商品で、それを輸入するという発想自体が斬新だった時代。新聞はスマホで記事検索するどころか、各戸に配達さえされずに「縦覧所」で回し読みしていた時代。100年後には少子化で高等教育の場である大学さえ減らさねばという議論がなされるなど夢にも思わず、小学校を開設することが急務であった時代。

 庶民に衣食住の物資を提供する店舗や物流網も、小学校や病院や公園といった公共施設の建設や運営も、やらなければならないことは山のようにあった。

 一方で、明治時代の日本人男性の平均寿命は44歳。熊四郎は68歳まで長生きした。「やらなければならないこと」が山積みで、シリアルアントレプレナー冥利に尽きる、さぞかし忙しく充実した一生だっただろう。

 

そ れに比べると、21世紀の今、とりあえず衣食住の供給や社会インフラ整備など「やらなければならないこと」は、世の中全体として見ると一通り出来てしまっているように思われる(それが必要な人に必要なだけ行き渡っているかどうかは別問題だが)。

 だから、「より便利」とか「楽しい」とか「目新しい」とかを大義名分にして、「やらなくてもいいこと」を無理やりやってみているような気が、しないでもない。

 それでも「やりたいこと」がある若人はよい。いわゆるイノベーティブ・クリエイティブでない人や、進み過ぎた社会インフラを活用した新規ビジネス創出はおろか、ネットやAIについていくエネルギーさえ減衰し始めている世代は、一体、何をすればよいのだろう。

 フォークやナイフを輸入して売りさばくだけで文明開化と喝采されていた熊次郎の時代が、ちょっと羨ましい。           ・・・(下)に続く。。。