ティーンエイジャーにして世界で活躍するスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリ氏。会ったことも話したこともないのに、正直、なんとなく苦手だなぁ、と感じていた。
しかし先日、日経新聞の記事をもう1歩踏み込んでみたとき、新たな発見があった。
気候変動サミットに合わせて開かれた米下院の委員会で、トゥーンベリ氏は、各国の政治家らが「気候変動から逃げている」と痛烈に批判した、と記事に書かれていた。
環境問題の門外漢で、各国の対応策が一体どうなっているのかも知らない。ただまあ十分でないことは想像に難くないが、そんなに手厳しく非難しなくたって…。記事を読みながら眉を顰める。
穏やかな毎日の副産物なのか、ネガティブな言葉遣いに対する苦手意識が増してきている今日この頃。他人の言葉のネガティブトーンに、過敏に反応してしまう。嫌だな、と耳をふさぎたくなってしまう。
それにしても、実際、トゥーンベリ氏はどんな言葉を使って痛烈な批判を繰り広げたのか。ふと気になって、原典を検索してみた。アップされていたフル映像を見て、驚いた。彼女のスピーチは、明確で冷静で、淡々としていたのである。
日経の記事が誤っていたわけではない。「 」で引用された彼女の発言内容そのものは、それなりの日本語訳になっている。問題は「 」のあとの動詞だ。
「…逃げている」と痛烈に批判した。
「…不十分だ」と一蹴した。
「…」と糾弾した。
「 」と警鐘を鳴らした。
私の耳には、「警鐘を鳴らした」以外は、明らかにAggressiveな戦闘モード、辛辣な印象を受ける。これらの言葉に騙されて、トゥーンベリ氏に対するネガティブ意識を、さらに強めてしまうところだった。
危ない危ない。コトバのチカラは、恐ろしい。
コトバのチカラの恐ろしさを「数値化」した、有名な心理学実験がある。
実験協力者の大学生45名に、5~30秒の車の衝突事故映像を見せたあと、そのとき車がどのくらいの速度で走っていたか、9人ずつ別々の「動詞」を使って質問した。その結果、コトバによって、回答した速度が有意に異なっていたのである。
「車同士がぶち当たった(Smash)とき、どのくらいの速さでしたか?」→66km/h
「車同士が衝突した(Collide)とき、どのくらいの速さでしたか?」→63km/h
「車同士がぶつかった(Bump)とき、どのくらいの速さでしたか?」→61km/h
「車同士が当たった(Hit)とき、どのくらいの速さでしたか?」→55km/h
「車同士が接触した(Contact)とき、どのくらいの速さでしたか?」→51km/h
さらに次の実験では、質問のとき①「Smash」を使う、②「Hit」を使う、③速度質問をしない、という3組に分け、1週間後に「あのとき見た映像に、割れたガラスがありましたか?」という質問をした。実際には割れガラスは映っていなかったが、「あった」と答えた人の割合が、①組では圧倒的に高かったのである。
同じ映像を目撃しても、それを描写する際に他者が使った「動詞」が過激になるに従い、イメージがデフォルメされる。さらに、その“過激な”動詞によって映像の記憶自体が歪曲され、ありもしなかった割れガラスを見たような気がしてくる。
人間が物事や他者に対して抱く印象や記憶は、いかにあやふやなものか。
私自身がなんとなく抱いていたトゥーンベリ氏のイメージは、マスメディアが伝える二次情報を生半可に聞きかじった結果、生成されていたものに過ぎなかった。
コトバのチカラは、恐ろしい。
動詞ひとつで、人のココロはカンタンに操作できるのだ。