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 震災とコロナウィルスとのもう1つのちがいは、「バイアス」かもしれない。

 私たちは、日頃から「地震はこわい」という認識の下、保存食の貯蔵や非常持ち出し袋の用意などしながら、リアルな予測を立てている。そうした物理的・精神的準備は、多くの人々の間で、ましてや家族間で、けっこう共有されているのではないか。

 かたやコロナウィルスは、スペイン風邪を知らず、SARSの影響もさほどではなかった現代の日本人にとって、地震のようなリアルなイメージが湧きづらいし、情報も相対的に少ない。

 そこでは、「自分だけは感染しない」といった「自己中心バイアス」から、「感染しない」という自分の信念を補強する証拠ばかりを探す「確証バイアス」、まず目についた情報だけを頼りに安易に判断してしまう「Availabilityバイアス」など、バイアスのオンパレードである。

 「バイアス」は、自分自身が人生経験の中で培ってきた「価値観」と言い換えることができる。異なるバイアスを持っている者同士は、「価値観」がちがうから分かり合えない、という違和感を抱きがちである。

 どだい衛生観念というものは、長年一緒に暮らしていても、おいそれと変わるものではない。私の女友だちの間で最も頻繁にささやかれる文句の一つは、「どうしてオトコは歯磨きするだけであんなに洗面所を汚すのか!?」。

 「衛生」をテーマとするコロナ禍の下、「衛生」をめぐるバイアスと価値観の違いが、夫婦の関係性の崩壊につながるのも、むべなるかな。

 

 というわけで、極私的な見解ではありますが、「吊り橋効果」のなさと、「バイアス」による価値観の違いの顕在化が、コロナ婚<<コロナ離婚の背景にあるのかもしれない。

 だとすれば、アンハッピーな別れの数よりもハッピーな絆の数をふやすには、どうしたらよいのでしょうか?

 

 これまた極私的な見解だけど、「想像力」がキーワード、かな。

 今、隣でごろごろしてるこの人が、コロナで突然死んじゃったら…。

 「自分で食べるものくらい、たまには自分で用意しなさいよ!」と言われた相手がマスクもせずにコンビニに行って、どっかでウィルスもらってきちゃって、緊急入院で帰らぬ人となってしまったら、「あのとき冷蔵庫の残り物で炒飯くらい作ってあげればよかった」と後悔しても始まらないのだ。

 バイアスにしたって、同じこと。ちょっと想像力を働かせれば、これだけ無作為に感染者が出ている状況の中で「自分だけは大丈夫」という考え方がいかに根拠レスかは明らか。仮に自分は大丈夫だとしても、陽性で症状が出てないだけで、周りにウィルスをまき散らしてるかもしれない。

 

 一人暮らしをしている友だちに、「元気?」って一言メールする。想像力をフル回転させるまでもなく、相手の懐かしそうな笑顔が思い浮かぶ。仕事の件でLINEしたら、「ちょっと電話で話そう」といきなりコールがくる。ああ、オンライン仕事ばっかりで、相手も声を出す会話がしたかったのかな、と想像しながら、ちょっとばかり長話をする。

 別に、吊り橋効果を期待してるわけじゃないけど、こういう小さなコミュニケーションのあとは、しばらく心がほのぼのあったかい。

 

 極私的には、コロナ婚を狙っているわけでは決してないが、世の中で、コロナ離婚よりもコロナ婚の勢いが増すことを、祈っている。