「多元的無知」という心理学用語がある。
平たく言うと、こういうことである。
あなたが、部署異動(あるいは、転職)したとする。自分は、仕事が終わればとっとと帰りたいタイプなのに、新しい職場では皆なんだかんだと残業していて、定時にさくっと帰る人などいない。すると;
①皆、帰りたくないのかなぁ、なんだかかなぁ、やっぱ上司より先に帰るとマズいと思ってるのかなぁ、きっとそう思ってるんだろうなぁ、と思いを巡らす。
②でも、ここで断固、定時退社して波風立てるのもナンなので、とりあえず自分もなんとなく残業する。
③そんなことを続けるうちに、気づくと自分も毎日残業、職場の風土に馴染んでしまう。
④自分のあとでその部署に来た人も、自分と同様に残業するようになる。かくしてその職場では、「残業」が当たり前になる。
コロナウィルスのおかげで、残業どころか出社もしないでテレワーク、というスタイルが急速に進みつつある今日この頃だが、ちょっと前までは上述のような人、珍しくなかったのではないだろうか。
では、一連の行動の、どこが「多元的」で、どう「無知」なのだろうか。プロセスごとに見ていくと…。(ここでも、まことしやかな心理学用語が駆使される)。
①→
- 私たちは、自分がやりたくないことを他の人がやっているを見ると、「相手も自分と同じように『残業したくない』と思っているのにイヤイヤ残業しているのでは」と思うよりも、「相手は好き好んで残業してるのかも」、と間違った推測をしがちである。これを「対応バイアス」(=人の行動は、その人の選好や思考に“対応”しているものだ、という思い込み)という。
- これは、自分という「個人の次元」での、他人に対する「無知」である。
②→
- やりたいと思うことをやるのは当然だが、同時に私たちは、「印象管理動機」、つまり自分が他人に与える印象をよくしたいという動機を持っている。
- 印象管理動機が強いと、どうしても他人の目が気になり、残業したくないという欲求を抑えてでも、あえて残業してしまう。
③→
- 他人に合わせてやりたくない残業をする、つまり自分の「信念」と一致しない「行動」をとると、どうしてもキモチ悪いし、実は不愉快である。こういう状態を「認知的不協和」という。
- 私たちは、キモチ悪い状態を解消すべく、無意識のうちに手っ取り早い方法をとる。この場合、他人の目を気にしている限り残業という「行動」を変えるわけにはいかないので、自分の「信念」の方を変えるのである。「やっぱり残業はしないといけない」「職場のルールに合わせることが一番大切」と考えて、自分で自分をうまく騙してしまうのである。
- これは、「個人の次元」での、2つめの「無知」、自分の本心に対する「無知」となる。
④→
- 個人次元の無知によって皆が残業するようになると、職場集団全体が「残業は当たり前」状態になる。こうなると、「集団の次元」の、メンバー同士の「無知」である。
- 集団行動そのものが「同調圧力」となり、個人レベルでの誤認識=無知がさらに確固たるものとなって同調行動が促される。このように、個人と集団の次元で、無知がぐるぐると再生産されるのである。
- やがてその職場では、「残業は美徳」といった暗黙の規範が生まれることさえありうる。
外部者から見ると「???」と思われる行動や、実は誰一人として望んでいない好ましくない行動が、なぜかなかなかなくならず、むしろ「規範」とか「風土」として定着してしまう背景には、「多元的無知」が一役買っている。
多元的無知の例は、したくないのにしてしまい、いつの間にか慣例になってしまう残業だけではない。一人ひとりは買わなくてもいいと思っているのについトイレットペーパー買ってしまい、その結果全国のお店が品不足に陥った挙句、マジに自分ちのトイレにペーパーがないのに買えない人が出るという悲劇も、多元的無知の現れと言えるかもしれない。
では、多元的無知を防ぐには、どうしたらよいのか。
心理学とは、私たちの心理を懇切丁寧に分解して解析して、「ヒトは、普遍的に、〇〇という思考を持っています。それを〇〇理論と呼びます」と命名するだけで、オシマイなのか。
もちろん、そんな無責任な(?)学門ではないので、ご安心ください。