友人の訃報を聞いたのは、会社からの帰宅後でした。

自宅の固定の留守番電話に、
「この録音を聞いたらすぐに折り返し電話するように」
というメッセージが複数本入っていました。

今、思えば携帯電話ではなく、
自宅の固定電話であったことが、
かけてきてくれた方たちの配慮だったのかもしれない、と思います。

外出中に聞く話ではない、という。


かけ直して繋がった知人から、その話しを聞きました。
話を聞いていても、現実感がなく。
現実感がないまま、他の共通の友人知人に連絡をしました。

話が終わったあと、眠ることもできずに、
ただ何時間も座っていました。

不思議なことに、座っていたソファから見えた景色ではなく、
ソファに座っていた自分を見ている、という記憶が残っています。

自分を見ていた自分。

だとするとそのとき

わたしは自分の中に居なかったのかもしれない、と思います。



時が過ぎても喪失感は変わりません。
何もできないなぁという圧倒的な無力感も変わらない。

ただここ1~2年で変わってきたことといえば

長年にわたる喪失感・圧倒的な
無力感を感じてしまうような友人と出会たことは、
人生の中で起こった大きな幸運のうちのひとつ、
と思えるようになったこと

かもしれません。

喪失の悲しみより
出会って一緒に過ごせた時間がありがたい

ここまで辿り着くのに20年以上かかってしまったなぁ
とも思います。
喪失の悲しみ階段を上っていた感じ。

しかし踊り場で方向がかわり、
一緒に過ごせて
ありがとうの階段を登り始めた感じというか。

「ありがとう」階段を登っていけば、
そのうち自分の命数が尽きて、
友人のいる世界に辿り着くのではないか、と思います。

その頃、友人は元気に転生してそうな気もしますが・・・

日々の生活もまた、良い旅でありますように!