形のあるものは壊れる・・・・

だから、この世界は進化をしてきた・・・・

ずっと変わらないのなら、命は存在しないのかもしれない・・・・

 

40年という耐用年数を決めて設計されていた原発が、

その年数を20年伸ばすことになりました。

中性子を浴び続けて脆くなっているだろうということが容易に想像できる原発・・・

複雑でメンテナンスも簡単にはいかない原発・・・

40年で廃炉にすると作った時に決めたのはどうして?

40年としたのはなぜ?

耐用年数を考えた結果だったはず・・・・

40年経って技術が進歩したから大丈夫なの?

でも炉そのものは交換できるの?

 

廃棄物はどうなるの?

今も廃棄物をどこに処分するかも決まっていないのに、

動かせばまた廃棄物がでてくる・・・・

未来にすごい技術が生まれて解決する?

そうかなぁ・・・・

あと20年の間にものすごい技術が生まれて問題を解決するなんて、

できそうにない・・・・

 

その前に来るかもしれないのは地震?

もしも、大きな地震が来たら・・・・

大きな事故の起きる可能性は、当然だけどより高まっていく・・・・

 

誰もが危険だって知ってる・・・・

 

それなのにどうして?

なんのために?

 

安いから?

 

安いって?

ほんとうに安いの?

 

だって、莫大な税金を必要としているよ。

フクシマの事故だっていまだに未透視が立たなくて、

莫大なお金をつぎ込みながら、それでもどうにもならないでいるよ。

どんどん壊れやすくなっていくものをつぎはぎのように直して使い続ける?

そのつぎはぎしていくお金はどうなっていくの?

 

安いっていうけどよく計算してみると安くないという話もある・・・・

というか、お金と命をはかりにかけられるもの?

?にしたけど、結局かけているわけだね。

 

実は安くもないのに?命の危険もあるのに?

事故が起きれば、その被害はそれこそ甚大・・・・

みんなわかってる・・・・

じゃあ、どうして?

 

・・・・やっぱり、楽に儲かるから?

それとも、現状を変えるのが嫌なのかな・・・・

 

そのままがいいと思っている人が多いんだろう。

そのままでいいこともたくさんあるけど、

変えていかなければならないこともたくさんあるんだろうと思う。

 

だめならやめればいいのに。

始めたらやめられないということはない。

試してみるとこはいいことだと思うけど、

試してみてよくないと思ったら引き返せばいい・・・・

そんなの当たり前だというかもしれない。

だけど今そんな当たり前ができないエライ人が多い・・・・

なぜ、できないのだろう?

 

朝のラジオを聞きながらそんなことを考えていたら、

ラスコーリニコフがまた出てきました。

 

ラスコーリニコフのことがずっと頭の中にあります。

唐突かもしれないけれども、ずっと頭の中にあって、

全部繋がっている気がするのです。

ラスコーリニコフの間違い・・・・

ラスコーリニコフの思考・・・・

彼の考えていたことに繋がる気がするのです。

彼は頭の中で理論を組み上げました。

そこに「生活」はありませんでした。

人が生きているということが、言葉は知っていても本当には理解していなかった。

理性だけではだめなのだということを読んでいると自然に感じます・・・・

 

ラスコーリニコフは、最後に、エピローグの中で突然、

気づきがあって、変わりました。

思考では変われなかった彼がソーニャの愛で最後に変わりました。

なんてロマンなんだろうと僕は思ってしまった。

こんな風にでも変わってもらってほしい人がこの社会にたくさんいる・・・・

 

ドストエフスキーはおわりに、

「しかしそこにはもう新しい物語が始まっている。・・・・・・

これまでまったく知らなかった新しい現実を知る物語である。

これは新しい作品のテーマになりえるであろうが、ーこの物語はこれで終わった。」

 

と書いています。

愛を知って変わりこれがその第一歩で、ここから大きく変わって行く・・・・

それが生きていくということなのか・・・・

 

当たり前は当たり前じゃない・・・・・

普遍的なものは心の中にあるものなのかもしれません。

肉体だって滅びるものです。

まして人が造り出したものは・・・・

 

演劇は一瞬のものです。

舞台は一瞬・・・・

でもよい舞台の記憶は観た人、関わった人の心にずっと残り、

何かのはずみで人の心を変えることもあるかもしれない・・・・

舞台は物理的には一瞬だけど人の心の中を漂い続けてたら永遠のもの・・・・

 

今日は稽古です。