「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」

 

宮澤賢治の言葉です。

賢治は1896年生まれです。

1933年に亡くなりました。

明治から大正、そして戦前の昭和を生きた人です。

日露戦争があり、日韓併合があり、第一次世界大戦があり、シベリア出兵があり、

絶えず戦争があった時代。

そんな時代に生きていた・・・・

いろいろな事件、事故も・・・・

タイタニック号の事故は1912年のことです。

賢治が16歳の時・・・・

1923年に妹のトシを結核で亡くします。

最初はチフスと言われたらしい・・・・・

その頃チフスが流行っていたそうです。

「虔十公園林」では、虔十も、意地悪していた平二もチブスで死んでしまいます。

 

そして1924年には関東大震災が起きます・・・・

 

死と隣り合わせの時代・・・・・・

 

それじゃあ、今はどうか・・・・・

今年、能登半島地震がありました。

近年では熊本地震があり、

東日本大震災があり、

中越地震があり、

阪神淡路大震災があり・・・・・

 

コロナがありました・・・・

 

世界では、ウクライナをロシアが攻めて戦争していて、

パレスチナをイスラエルが攻めて虐殺をしています・・・・

 

いろいろな国が、人が武器を持って殺し合っています・・・・・

 

今朝のラジオで、日本の岸田首相とその政府は、

アメリカと軍事関係をより深めていく、戦後の日本の軍事の在り方を、

国会の議論もなく変えてしまうと話していました。

 

戦争をする国になる・・・・・

命を奪う国になるということです。

 

武器を輸出する・・・・

 

より強力な武器を莫大なお金をかけて作る・・・・・

 

その武器をどこかかで誰が使い、それで命を失い、大切な人の命を奪われた人が、

奪った人の命を奪うために武器を持つ・・・・

戦争は殺し合い・・・・莫大な金をかけた殺し合い・・・・

 

この地球にはたくさんの命が存在していて、その命はみんな元はこの地球。

自然災害だって毎年のように起きていて、

人は助け合って生きていかなければならないのに、

助け合わずに奪い合う・・・・・

 

宮澤賢治の言葉を読んでいると、

一人の命の光は、小さく、この宇宙の中で一瞬の瞬きのように思えるけれども、

その一瞬は永遠でもあるように思えてきます。

大きな時間の中での小さな一瞬は輝き美しい命の炎のように思えます。

そしてそれはそのまま大きな宇宙を創っている・・・・・

命がどれだけ大切なものであることか・・・・

そしてはかないものであることか・・・

 

そんなことを感じていると、

こんな風に考えて、いや感じてしまうというのかな、

 

一人の人間の身体の中には宇宙があって自然が詰まっている・・・・・

今を生きている命は、この宇宙から渡された大事な命の切符・・・・

 

切符・・・・・銀河鉄道の切符・・・・

井上ひさしさんは「思い残し切符」というのを戯曲の中で書いていました。

僕は「命」という切符という言葉の方がしっくりくるかな・・・・

 

この命の切符を人間が、

勝手に欲望のために踏みにじられることがあってはならないのだろうと思うのです。

しかもその欲望が、勝手な正義などという言い訳によって誤魔化されたものであってはいけないのだと思うのです。

人が幸せに生きるために社会は存在するべきなのに、

社会がいつの間にかいびつな欲望を生み出す・・・・

人間のためにあるはずのシステムがいつのまにか人間を支配してしまう・・・・

それにはどう向き合ったらいいのか・・・・

どう生きていけばいいのか・・・・

 

宮澤賢治の言葉の中にそんな問いかけを感じるのです。

 

そうして辿り着いた言葉のひとつが、

「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」

だとしたら、

そのためにどうしたらいいのか・・・・

どう生きて行ったらいいのか・・・・

少なくとも殺し合いの世界がなくなる努力をしなければならないということに

なるのではないかと思うのです。

その一歩として僕らは日本国憲法を持っている。

その日本国憲法には第9条というものがあって、

戦争を放棄するということをうたっている。

武器も輸出しないことを国の在り方として決めている。

 

もちろんそれだけで、戦争、殺し合いを無くすことはできないけれども、

少なくともそのためのひとつだと思えます。

 

今の政府はそれを変えようとしている・・・・

国会で話し合いもせずに・・・・

彼らは、短絡的な人々に感じます。

 

近道はないと思うのです。

簡単に解決できるように見える道には落とし穴があると感じるのです。

人間の身体は、自然そのもので、宇宙だと思います。

この宇宙は頭脳だけ動いているわけではありません。

思考はほんとうは身体全体で出来上がっていると感じています。

僕らは身体全体であるべき社会を思考しなければ、

想像しなければ、平和な世界を創造できないのではなかろうかと思うのです。

 

稽古をすることは、そんな思考のためのひとつでもある・・・・・

そう思うのです。

殴り書きをしています・・・・

言葉がまとまっているわけではありません・・・・

 

銀河鉄道の夜の稽古は、宮澤賢治の心と想像、思考の中を彷徨う旅のようなもので

そうしていると今の自分の社会に対する向き合い方を問われることになるのです。

 

僕らが生きてきたこと体験してきたことが、

銀河鉄道の夜を稽古することで思い返されます。

宮澤賢治の言葉は強く、その世界は強く、激しいものがあります。

その強さに揺さぶられて、今の社会を見るように促されている・・・・・

 

稽古をしながらこの社会をみんなで考えなければならない・・・・・

それは、社会そのものの在り方を問う事で、

そうするとそれは価値観を問うことになる気がしています。

その価値観は理想を目指すために必要なものとしての価値観ということに

なるのかと思うのです。

 

明日は稽古です・・・・・