今朝の気温は6℃。

体温も36℃でした。

 

 

オッサン・・・・・・・

しかもなぜ半袖・・・・・・・・

 

昨日も稽古でした。

ストレッチを30分やってそれから音楽の稽古をして、

そうして芝居の稽古です。

昨日の稽古場では、だいたい間口をとることはできましたが、

奥行が2間しかとれませんでした。

公演の演技エリアの奥行は3間でその奥に立木とかが来る予定なのです。

奥行がないというものなんとも動きずらいものです。

小道具が並ぶと後ろを歩くのがたいへんです。

 

 

稽古は猫の事務所から。

この話では黒子役が活躍します。

無言で、猫の事務所の面々にいたずらをするのです。

猫たちには黒子役は見えていない設定です。

でも時々その存在を感じたりします。

語り1の子分というような存在ですが、語り1の思惑を超えて勝手に動いてしまうのです。

黒子役は語り7という役名です。

語りとついていますが、言葉で語るのではなく、表情と行動で語るのです。

 

 

・・・・・・ローラースケートのようなことが頭に浮かんだのですが・・・・・・・・・

みんなには呆れられ、そく却下・・・・・・・

 

 

かま猫と事務所の猫たちとの関係は、

たぶん今日もどこかで同じようなことが繰り広げられていると思います。

ひとりひとりの問題で片付けられる話ではないと思うのです。

根底にあるのはこの社会が抱えている問題だと思うのです。

 

大正15年、1926年に発表された作です。

95年前です。

95年前と今とちっとも変わっていない・・・・・・・

 

草稿ではラストは

 

「みんなみんなあわれです。かわいそうです。かわいそう、かわいそう」

 

だったそうです。僕もそう思います。

みんなかわいそうなのです。

 

さて理解するということと芝居をするということはイコールではありません。

もちろん、理解をすることは必要です。

必要最低限のことです。でもそれで芝居ができるわけではありません。

読み解き、分析は、役の根っこを作るための基礎みたいなものです。

そこから作るのです。

 

その場所に移動するために動くのではなく、

結果としてその場所へ行ってしまうのです。

 

稽古は楽しいものですが、ぶつかる壁は次々にでてきます。

越えなければならない山が次々に出てくるのです。

時に山に圧倒され、どこを歩いているのかさえ見失い、

とても不安になり、身動きが取れないことになったりします。

 

でもそうやって悩んで乗り越えていくと

(果たして乗り越えているのかいないのかわからない、

ただただ不安でやみくもに歩いているだけに感じられているかもしれません)

でもいつのまにか乗り越えていたりするのです。

 

それに彷徨うこともいつか役にたちます。

 

とはいえたいへんです。

そうして時間は刻一刻と過ぎていきます。

そのことがまた焦りを生むし、追い詰められていったりします。

 

少しでも先に進めるように、楽な道を探すのではなく、彷徨っていく稽古場です。

彷徨うのは一人一人ですが、

決して一人ではありません。

みんなで協力し合うのがぱれっとの稽古場です。

そうしてアンサンブルを造っていくのです。

 

 

それぞれが、何を発信できるのか、

何を発見していくのか。

 

猫の事務所の次は「どんぐりと山猫」です。

昨日の稽古は、どんぐりと山猫の途中で時間切れとなりました。

昨日は緊急事態宣言の延長のために時間制限を受けていたのです。

 

なかなか現実は厳しい・・・・・・

 

けんじサーカスカメリア公演まであと 43日 となってしまいました。

 

なんとしても山を登って行く、越えていく、全員で。

 

どうかみなさん、その姿を観にぜひ劇場へ足をお運びください。