李氏朝鮮の前王朝貴族である。

レベルが違う。

 

 

安東金氏(あんとうきんし)は、朝鮮の氏族の一つ。

日本と韓国に残る墓所

 

 福澤先生は、金玉均供養のため、寺田福寿に法名を依頼し、「古筠院釈温香」と付けて位牌を作り、自宅で法要を営んだ。

 

金玉均の生涯

 李朝後期時代に、日本を範に朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均(キムオクキュン)は、一八五一年二月二十三日、忠清南道公州市で生まれる。本貫(始祖の出身地)は安東で、安東金氏は名門の家柄であったが、金玉均の生家の生活は楽ではなかった。二十二歳で科挙に合格するという秀才で、書、詩、絵画、音楽にも優れた才能を持ち、中堅官僚のホープであった。そして世界の情勢学び、西欧の科学技術や民主的な政治を導入していく開化思想を抱いた。
 当時の朝鮮は、李氏朝鮮王朝第二十六代王・高宗(コジョン)の父・大院君と王妃・閔妃(ミンビ)との権力闘争が繰り返されていたが、いずれにしても専制政治が行われ、清国の朝貢国の立場にあって、鎖国攘夷を行うという旧態依然としたものであった。そこで彼は、明治維新を範として、日本の協力によって朝鮮を近代化し、真の独立を目指そうと志した。
 明治十五(一八八二)年二月から七月にかけて日本に留学し、大阪慶應義塾で学んだ東京東本願寺別院の僧侶寺田福寿の斡旋で、福澤先生と出会うことになる。西洋列強の支配を受けないために、アジア諸国も近代化して独立を果たさなければならないという考えを持っていた福澤先生は、既に明治十四年に二名の朝鮮人留学生を慶應義塾で受入れるなど、朝鮮の近代化を支援していた。金玉均は先生の卓見に感服し、先生は彼の情熱に共感して広尾狸蕎麦の別邸(現幼稚舎)に住まわせ、政府高官、民間の名士などに会見させた。

 

金玉均
金玉均
 

 明治十五年九月から翌年三月まで金玉均は二度目の来日をした。同年七月、大院君が、政権を握っていた閔氏一族打倒を画策した壬午(イムオ)事変が起こり、日本公使館員、日本人軍事顧問などが殺害された。その結果、日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問としての再来日であった。この時、福澤先生の尽力で横浜正金銀行より朝鮮政府への十七万円の借款を得ている。さらに彼の求めに応じて、朝鮮改革の顧問として、福澤の門下生牛場卓蔵、井上角五郎を遣わしている。
井上は、『漢城旬報』という朝鮮初の新聞を発行し、漢字ハングル混じりの新文体を提唱した。

 明治十六年六月、国王の国債委任状を持ち、三百万円の借款を得ようとして三度目の来日を果たす。先生の紹介で知己を得た後藤象二郎等が支援するが、閔妃の妨害や日本政府の非協力によって借款は成功せず、失意のうちに翌年五月に帰国した。

 金玉均はじめ開化派は、平和的方法による改革をあきらめ、清国を頼って守旧的な事大政策をとっていた閔氏政権打倒のため、日本軍の支援によるクーデターを実行した。明治十七年十二月四日、郵征總局(ウジョンチョングッ)(近代的郵政業務を取り扱うために設置された官庁)の落成式で、政府の要職を占めていた閔氏一族を殺害した甲申(カプシン)事変である。
清国への朝貢廃止、門閥の廃止と人民平等の権、窮民保護、不正官吏の取り締まり、地租改正というまさに近代化の政策が発表されたが、清国軍の介入により、政権は三日で終わってしまった。

 

 

 クーデターに失敗した金玉均は、十二月十一日仁川を出港し、十三日に長崎へ着いた。十二月下旬に東京へ赴いた金玉均は、三田の福澤先生を訪ね、狸蕎麦の別邸に匿われた。その後は、朝鮮からの刺客から逃れるため、岩田周作と名乗り、日本政府の庇護を求めたが、外交上の紛議を懸念して国外退去命令を出すなど彼を厄介者として扱うようになり、横浜、関西、小笠原諸島、北海道などを転々とした。その間、先生を始め、犬養毅、尾崎行雄、朝吹英二、井上角五郎などの門下生は、生活資金の援助を惜しまなかった。

 明治二十七年三月二十八日、金玉均は朝鮮、清国両政府の奸計によって上海に誘い出され、刺客洪鐘宇(ホンジョン)によって暗殺されてしまった。遺体は朝鮮に運ばれ、切り刻まれて各地で晒しものにされた。

 

日本と韓国に残る墓所

 福澤先生は、金玉均供養のため、寺田福寿に法名を依頼し、「古筠院釈温香」と付けて位牌を作り、自宅で法要を営んだ。