金玉均

ハングル: 김옥균
漢字: 金玉均
片仮名:
(現地語読み仮名) キム・オッキュン
(キム・オクキュン)

 金 玉均(キム・オッキュン、김옥균、きん ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、백온)、号に古愚(コウ、고우)。本貫は安東(新安東金氏)。

 日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎[1]らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には“岩田秋作”と名乗っていた

 日本では東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。

嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)

 金玉均は国賊ということで暗殺された。それだけでなくその一族は国賊だということで処刑された。当時の朝鮮は閔家と金家が有力で閔氏は守旧派で清朝を後ろ盾にし、金氏は革新派で日本の明治維新から学ぼうとしていた。金玉均らのクーデターが失敗した後は閔氏が力を握っていたので金玉均は国賊になっていたのである。

 金という姓は沢山あるが金玉均は「安東金」という家柄であった。この家系は士族であった。(朝鮮にも士農工商身分はあり、日本より徹底していたのだということをはじめて知った)日本の士族は「武士」階級であったが朝鮮は「文士」階級であり、日本流に言えば貴族とか華族になるらしい。日本と違い武は卑しいとされていた。金氏に限らす朝鮮では子どもの名前は陰陽五行説に従ってつけていた。金玉均でいえば

1代 金玉均   土偏  
2代 金黄鎮   金偏
3代 金九漢   水偏     
4代 金仁東   木偏
5代 金孝炫   火偏

 となって、名前には五行(土、金、水、木、火)が繰り返されている。従って土偏の均という文字が最後についている名前は「安東金」家のものだということがすぐ判る仕組みになっているのだそうだ。最近はこのような伝統も急激に崩れているようで、リナとかジュリーなどという名前をつける親が増えてきた。

 「処刑は一族に及んだ」という意味は姓が金で名前に「均」のついている者はすべて殺されたのである。殺された後、四肢をばらばらにし、それを見せしめとして全国を巡回させたという。金玉均の家系は彼の処刑で断たれた。

 当時は国賊。
 今の歴史が評価されるなら本当に国賊だったのか?
 朝鮮王朝は結果、朝鮮王朝の李氏に滅ぼされたのではないのであろうか?
 わからない。。。。