…. という歌がありました。南佳孝さんが1981年に歌って、大ヒットしました。
こんにちは、ミキです。
この歌が流行ったとき、私は中学生。オトナの歌だな~と思いましたが、今でも繰り返し、頭に残るサビの部分があります。
🎵 人生はゲーム 誰も自分を 愛しているだけの 悲しいゲームさ~🎵
特にこの「人生はゲーム」のところ。この歌詞は、その後30年以上にわたって私の、なんというか、生きる上のかなり太いよりどころとなってきました。
「人生はゲーム」って、いい加減や投げやりな意味で言っているわけではありません(私の中の解釈としては)。自分は盤上にいて、その上に、自分の駒を動かしている自分がいます(チェスとかのイメージかな)。だから、ここで自分は、どう動いたら、自分の駒である自分をどう動かしたら、周りがうまく収まったり、自分にとっても良いことになるのだろう、と、自分の盤を眺めるわけです。人生はゲーム。生きている間限りの、命を賭けたゲームなのだから、機会は最大化したい。自分にとって実りのある、納得できるものにしたいと思っているわけなんです。
そう思うことで、自分を第三者的に俯瞰することができ、日々目の前の息苦しさから、視点を変えて(上げて)見ることができる、という、良さもあります。
自分がだんだん年を取りながら生きていく上で、最近、もうひとつ発見がありました。
自分は自由になるために生きているんだな、ということです。
毎日のお勤め(仕事)は、自由に使えるお金や時間を確保するため、散らかった部屋を片付けるのも、すぐに欲しいものを取り出して外に出ていけるため、飼い鳥を愛情深く世話をするのも、彼らとの自由な交流、一緒にいる楽しさを味わうため。私は他に、野鳥の写真を撮る趣味があるのですが、それも、撮るために彼らをじっくり見ることで、彼らの自由な暮らしの一端に触れ、その生きざまの美しさに感動するためです。野生に生きる命は、どこでどのように死ぬのかさえ、自由です。
どんなに小さなことでも、何かをすることは、あるいは誰かや何かをほんの少し助けることですら、結局は自分の「生きやすさ」「やりたい方向への後押し」に繋がってくると思っています。
人生も50を過ぎれば、あとはもう何があってもおかしくはなく、平和に長生き出来たら、それはもう、ただ「恵み」なのだと思います。そろそろ、だんだん落ちていく人生の砂時計を片目でちょっと気にしながら、さて、私のやりたいことは、なんだったんだっけ?と、少しずつ手繰って、余計なものに拘泥せず、自分の目指す「自由さ」を探求・謳歌していきたいと思います。