正真正銘の確信犯に対処するにはまず、故意犯を黙らせることである | 人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
新型コロナ感染症に関して、本邦に於いても残念ながら教会発のクラスターが生じてしまった。時期的に云って、イースター礼拝の際に起きたのだろうと思われる。イースターとクリスマスの礼拝は別格であり、普段は教会に行かない人も、この二つに関しては出席する場合が少なくない。したがって教会内が「密」になりやすいわけである。イースターを邦訳すると「復活祭」となる。キリスト教はキリストの復活を信じることがその信仰の根本に当たるものであり、したがって教会にとってイースター礼拝を執り行うことは根源的存在意義となる。そのような性質を持つイースターはキリスト教成立当初から行われてきた祝祭であり、ヨーロッパにキリスト教が広まる過程で本邦に於ける神仏習合的な形で誕生したクリスマス以上の重みと云うものがある。

教会にとって礼拝を執り行うことは最も根本的な業務であると同時に、神に対する義務を果たすことでもある。これは教会に集う信徒にとっても同様のことで、礼拝への出席を軸とした教会活動に参加することは神から課された義務を果たすことを意味する。神から課された義務を果たすことは、人として当然のことであり、神に対する礼儀でもある。国家に置き換えるならば、徴兵制を軸としたナショナルサーヴィスに参加することは国民として当然のことである、と云う課題意識に近しいものであろう。義務を果たさないことは「罪」になり、また罪とはならなくとも、罪悪感を抱くものとなる。精神的苦痛と云うものがそこでは発生するわけである。当然の責務を果たせないと云う点、罪悪感を伴うと云う点に於いて、単に「やりたいことがやれない」ことから生じる精神的苦痛とは、その質的な意味合いが全く異なる代物となる。

宗教活動の自由は、基本的人権の中の基本、最優先事項、一丁目一番地的存在でもある。宗教活動の自由は最大限尊重されなければならない。したがって宗教活動に制限を加えること、或いは宗教者が自主的にその活動に制限を加えることを社会が「期待」し、そのように「誘導」することは、非常に重い行為である。殊にそれが外部に向けられたものではなく、集団内に於けるものである場合は猶更のことである。本件を眺めるに当たっては、以上のような事柄を前提条件として踏まえる必要がある。

本邦に於ける新型コロナ感染症は、島国であること、マスク着用が従前より励行されていたこと、挨拶の作法に身体的接触が伴わなかったこと等に加えて、所謂「ファクターX」の存在により、台湾のように制圧することが可能な状態であった。しかしながら本邦に於ける状況は、昨年の夏前に一段落したものの、その後は再拡大を続けており、収束とは程遠い状況となっている。その元凶は端的に云って、自制することが出来ずに遊び歩く人間、金儲けに執着する人間の存在にある。それらはいずれも神の前に於いて悪を行う人間であることを意味する。少なくとも本邦に於いては、不道徳な人間、無信仰者のせいでコロナが蔓延してきたわけである。その上、それらの不道徳な人間を処罰するどころか、コロナ蔓延防止の協力を得る為に、金の支払いまで行い、悪人ほど得をすると云う倫理道徳の面で滅茶苦茶な状況になっている。「リベラル」な社会と云うのは、悪人が跋扈し、善人ほど身を屈まなければならない社会であると感じるところであるが、経済活動の自由と云うのは職業選択の自由と云うものも併せて認められている。飲食業や観光業に未来はあるかもしれないが今は無いと云うことであれば、転職すれば良い。失業保険、自己破産、生活保護と云った制度もある。本邦はヒンドゥー社会ではなく、したがってカーストも存在しないのだから、飲食業や観光業を続けなければならない義務は何もない。「生活の為」と云うのは神の前に於いては「言い訳」に過ぎない。代替可能であるにも拘らず、今の営みに固執している以上、基本的人権の基本である宗教活動の自由に固執する者を非難することは筋違いである。

カラオケスナックは昼間から営業し、居酒屋は盛況である。花見の宴が開かれ、カフェでは女子会も行われている。一つ一つのグループは小人数でもそれらが一つ屋根の下に集まれば、結局のところ大人数となる。店内に於ける「密」対策は不十分だ。このような余暇活動が展開されているのだから、神に対する人としての義務である教会活動に於いて制限を加えようと云う機運は生じにくいものとなろう。否、寧ろ正真正銘の確信犯的行動に移ることとなろう。恐らくクラスターは讃美歌斉唱か、礼拝後の食事会によって引き起こされたものと推察する。店ではカラオケを熱唱している人間が居るのだから、讃美歌を熱唱しても良いのでは…これは故意犯である。店ではカラオケを熱唱している人が居るのに、讃美歌を熱唱することが出来ないのはおかしい…これが確信犯である。飲食店で普通に会食は行われているのだから礼拝後の食事会も行って良いのでは…これは故意犯である。飲食店で普通に会食が行われているのに礼拝後の食事会が開催出来ないのはおかしい…これが確信犯である。この食事会と云うのは単に信徒間の親睦や結束を増進する為に行われるものではない。牧師から各人への個人的メッセージの発出や悩み事相談と云うものもまた和やかな雰囲気の下で行われる。クラスター発生の教会は外国人主体の教会であるらしいことから、社会的孤立を防ぐ上で食事会の存在は、日本人主体の教会以上に大切な場であろうかと思われる。宗教上の要素を抜きにして、社会的要請の観点から眺めても、不要不急であるとは云い難い。このコロナ禍に於いて、ヴェトナム人による犯罪が急増していることが問題となっていることに留意すべきである。

遊び歩いている人間、金儲けに固執している人間は基本的に、故意犯である。旅行をする人間を例に採れば、このように説明することが出来よう。なぜ旅行をするのか、旅行をしたいから、味わいたい事物があるから旅行するわけである。日常生活を送る為に不可欠な行為ではないのだから、これはわざわざ行われる=故意に行われる性質の代物となる。「自分が旅行をすることで経済が回り、社会の維持発展に資するものとなる」と云う理由付けは飽くまでも後付けである。「自分が旅行をすることで経済が回り、社会の維持発展に資するものとなる」から、全くしたくもない旅行を無理やりにする人間は極めて少数であろう。旅行したいと云う欲望があり、それを正当化させる理由が後付けされる。したがってこれは確信犯ではなく、故意犯となるものである。

経済を回すと称して遊び回る人間・金儲けを企む人間が存在し、それらの人々が欲望を満たすことの出来る環境を作る為に宗教活動を制限しなさい・自粛しなさいと云う圧のある状況が続いてきた。そして金儲けを企む人間、遊び回る人間が多かったせいで医療現場が逼迫した。そこで更なる宗教活動の制限・自粛を求める…モラルもへったくれもないものである。無信仰者はしばしば自らの無信仰によって誰にも迷惑を掛けていないことを主張する。ゆえに宗教勧誘などしてくれるなと云うわけである。しかし無信仰者の不道徳な行いの結果、現に今日、宗教活動が妨害される事態となっている。何故に悪人のせいで神に対する義務を果たそうとする者・神の前に於いて正しくありたいと思う人間が、そのとばっちりを受けなければならないのか、と云うことである。

教会堂内に於ける会食をやめさせるのであれば、それは屋内に於ける飲食営業を禁止した後に行われるべきことである。教会堂外に於いて、例えばバーベキュー等による会食をやめさせるならば、それは持ち帰りや宅配を除く飲食営業を全面的に禁止した後に行われるべき筋合いの事柄である。不埒な故意犯を取り締まった後でなければ、どうして確信犯を宥めすかすことが出来ようか。確信犯は厄介である。しかし確信犯を厄介にしたのは故意犯の存在にある。その意味で真に厄介なのは確信犯ではなく欲望を制御することの出来ない故意犯と云うことになろう。