小室哲哉×乃木坂「Route246」考6 小室哲哉は復活するのか | 人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
とは云うものの、否定的感情からは何物も立たない。若い時分には負のエナジーから出発して何かを作り上げ、到達点を得たとしても、成熟するには至らない。したがって、いつまでも負のエナジーにすがるわけにはいかないのである。結局のところ、否定は肯定に依存する。「何か」がなければそのことを否定することもまた出来ないからだ。世を最終的に作り出すのは肯定の力の積み重ねである。このことを「信じる者は救われる」と云う。信じてみないことには始まらない。即ち、どこかの時点で肯定しなければならない。否定から肯定を上回る成果は結局のところ、最終的には得られない。

同様に、自分のことを嫌い、拒絶していては中々、成熟などしない。(本来の意味合いで)煮詰まるから素晴らしく仕上がるのだ。(誤用の意味合いで)煮詰まることを嫌っていては、本当の煮詰まりとその先の成果に出合うこともない。小室先生は過去の、あの頃の、典型的な小室サウンドを嫌う傾向にある。常に新しい音を求めている。しかし先生自身の加齢は進む。その結果、却って中途半端に古さの目立つ音になってしまう。新しいものを採り入れることは決して悪くはない。しかし「知新」ばかりに傾倒し、「温故」からなるべく目を背けようとするならば、成熟したものは生み出されないであろう。自分が送り出した快作を昔のものだからと云って、或いは評論家や音楽通から馬鹿にされたからと云ってなぜ避ける必要があるのか。反発する必要があるのか。それは彼らに支配されているに過ぎない。

生身の小室先生が大きくなり過ぎた「小室哲哉」と向き合い、その存在をよく探究することに、今後のキャリアの行方は大きく左右されよう。自分のことが嫌いであるなら、向き合うことを避けるならば、ただ年を重ねるだけ、遂に成熟するに至らずじまいなのだ。「Get Wild」の音を丹念に点検し、追究していけば「Get Wild」を超える名曲をいつか生み出す日も来るであろう。新しい機材を導入するなどして表面的に音を入れ替えてもそれが叶うことはない。新しいことと未熟であることは、常に隣り合わせだ。新しいものを採り入れれば、見掛け上、進化しているように見える。が、劣化もまた早い。一つのものをじっくりと探究し成熟化させることは見掛け上、余り進化しているようには見えない。が、いつまでも飽きられず、愛好される。