続・何なん | パーシャのピカンピカン

パーシャのピカンピカン

ひびの くうはくの りんかく

 

っき鏡を見たら髪の毛がブワッ!と広がっていて、なんだよこれ?!ただの毛玉じゃねえか!って思った。俺毛玉ちゃん。

 

毛玉ちゃんっていちいち「ちゃん」をつけるのは自分で自分をちゃんづけで呼んだらすげえかわいいな!って思ったからだよ。なんか胸がキュンとするわーって。

 

まあとにかくところでさあ、そんな可愛い俺の話を聞いてくれるかな。昨日なんか俺なんかは電車なんかに乗ってたんだよ。そしたら車内アナウンスで「えー、線路への置き石や投石など、妨害行為の防止にご協力ください」っていきなり。でかい声で。平然と。頼み事をされたのだった。そしてこちらが返事する暇もなくスピーカーがブチッと切れた。そもそもどっちみち返事を求めてる感じでもなさそうだったんだ。「ご協力いただけますか?」って質問形じゃないんだもの。こっちがOKするとハナから思い込んでるような口調でさあ、ちょっとあれかな思い込みが激しい車掌さんなのかな、しかもこちらが返事しよう思ったところでスピーカーなんて持ってないし・・・。

 

それで、えっとぉ返事はどうすれば…って戸惑いつつも、とにかく頼まれた内容がすげえ深刻だから無闇に断るわけにもいかない。だって断ったら大変なことになるよ置石とか、、それにととと、投石?! 過激すぎますよ。恐ろしいです。それはぜひ防止したい!って奮起した。

 

それでとりいそぎ承諾の合図として黙ってうなずき、さっそくギロギロと周囲や窓の外をにらみまくったんだ。

 

でもすぐ疲れちゃった。めちゃくちゃ神経使うんだもの。投石の防止って緊張しない? ていうかやったことないし。防止ってどうやるの、事前に発見→電車とびおり→犯人の腕掴む→ヤメロ!と叫び石を叩き落とす・・・? それって俺できるの実際? 俺何バウワーなの。などと考えてるうちにちょっと自分には荷が重い気がしてきた、というか経験が足りない。投石防止の。

 

それで「嗚呼今度からちゃんと拡声器を持ち歩かなくっちゃ、急に人命に関わることをスピーカーごしに頼まれても断ることができない。そのせいで誰かが投石で死んだりしたらとても嫌だ」って思って、スマホで拡声器を検索したりしながら電車に乗ってた。

 

ああ、でもさ、ちょっと話ずれるけどさ、今こうやってかんたんに人が死ぬとか話してるけど、そんな話ってなんだか難しいよね。実際には誰にも死んでほしくないんだもの。当たり前だけど。

 

そういうこと考えてるとときどき感傷的になるんだ。でもそれってみんなそうだよね? 日々の暮らしの中でふと感傷的になったり、またさめたりの繰り返し。感傷的になっているときはどうしても人生や命の意味について真剣に考えてしまう。さめているときは全然違う。さめているときはとにかくさめていて、冷静で、それに疲れている。

 

こないだ、そんな風に疲れてさめているとき、ふと思ったんだ。感傷的になってる時間って、とても大切なんじゃないかって。人生の大切な、有意義な、濃厚な時間なんじゃないかって。

 

なぜなら、そういうときって、人のことをとても愛おしく感じて、幸せであってほしい、と、胸の奥底から涙がこみ上げるような強さで思うんだ。

 

それは特定の人のことじゃないんだ。家族や友達だけじゃないし。すれ違う人、商店街を歩いている人、あっちのビルの窓から外を見ている人、こっちの道路で今通り過ぎた車を運転していた人、工事現場で警備してる人、公園で寝てる人、掃除している人、悪態つきながらカップ酒飲んでるおっさん、駅前で騒いでる若者、コンビニで並んでるおばさん、みんなそれぞれギャン泣きしながら、ぎりぎりのはかない命を握りしめて生まれてきて、いっしょうけんめいに食べて、飲んで、寝て、だんだんと大きくなって、それから周囲を見まわしながら必死で考えて、いつも迷って、泣いたり笑ったりして、ドクンドクンそうやって不安の中で生き続けてきて、そんなにも頑張ってきたのに、死んでほしくない。

 

ときどき、そういう愛おしさのようなものをあまりにも強く感じて、泣きそうなほどで、この愛おしさを、どうにかして何か一つの、確かなかたちにできないかと凄く思う。証明したくなるんだ。「命が好きだ」という強い気持ちを。

 

それがあまりにも確実で絶対的で、揺るぎなくて、深くて強い愛おしさの感覚で、それを、確かな形として、触れられるものとして証明できないだろうかと願って願って願って、じっと考えこんでいるうちに、突然気がついたんだ。それって、俺自身なんだ。つまり俺のこの存在自体が愛の結晶、愛おしい気持ちの証拠そのものなんだ。